大いなる遺産

『大いなる遺産』(1860)は英国作家チャールズ・ディケンズの後期の代表作です。ストーリーはクリスマスに孤児のピップが荒涼とした湿原の教会墓地で脱走した囚人と出会うところから始まります。

日本では中編小説『クリスマス・キャロル』(1843)でおなじみですが、ヴィクトリア女王(1837―1901)が即位し、大英帝国が繁栄を極める頂点にあたる時代の作家で、同時にイギリス小説の黄金期でもありました。世界に先駆けて始まった産業革命がもたらした恩恵である科学技術や医学などの進歩によって寿命も延び、科学進歩が称賛された一方で、イギリスは都市化、貧富の差、劣悪な環境での労働者の長時間労働など、これまでの歴史には見られなかった様々な社会問題を抱えることにもなりました。

初期のディケンズ作品の特徴は、『オリヴァー・トゥイスト』などにみられる矛盾に満ちた未熟な資本主義社会を告発しながらも、野放図で根底にユーモアがあふれ、楽天的で、旺盛な生命力にみち、からっと明るく、善が勝利を収めていました。
ところが後期作品になると、社会機構の歪があちこちで生じ閉塞感に覆われる世相を反映し、作風は暗く陰鬱になり、ユーモアも乏しく、社会問題への関心が高くなっていきます。しかし同時に構成的には複雑なストーリーを緊密に有機的に発展させ、探偵小説的要素も導入し、象徴的な描写が随所にちりばめられ、細部へのこだわりが垣間見られ、人物の内面をえぐりだすなど、確実に重厚性を増し、高質な小説作品へと昇華しています。そういう一級の芸術作品をぜひ堪能していただきたいと思います。

日本語は変化の激しい言語で、残念ながらこれまでの『大いなる遺産』の翻訳は日本語としての賞味期限がもうすでに切れていました。そこで新たに若い世代の人たちにも読みやすいように翻訳を刷新できたと思います。

(国際文化学研究科・教授 石塚裕子)