本居宣長―文学と思想の巨人

本居宣長の名を知る人は極めて多く、「物のあはれを知る」説を唱えたことやその主著に『古事記伝』があることを知る人も多い。だが、「物のあはれを知る」説の本質を説明できる人となると途端に数が少なくなり、『古事記伝』を読み通した人となれば、専門家を除けばほとんど皆無に近い。主著や主要学説を知らずに、はたしてその人を知っていると言えるのか。宣長を知るためには、適切にこれを解説する本が必要である。図書館を探しても、本屋の書棚を見渡しても見つからない。ないなら自分が書けばよい。以上の経緯で出版したのが本書である。

本書は、江戸時代の国学者・本居宣長(一七三〇年~一八〇一年)の生涯をたどりながら、その学問研究を文学と思想の両面からとらえて、宣長の全体像を描くものである。ひとくちに全体像と言っても、いろいろとアプローチがあるだろう。伝記や年譜といった時系列による生涯の叙述から、テーマを絞りこんで一点にスポットライトを当てるものまで、種々さまざまな手法が想定される。伝記や年譜は、事実に即してその人の人生をパノラマのように見渡すことができるが、その反面で記述が平板になりがちである。一方、単一のテーマでまとめたものは、その人の内面の深いところまで分け入ることができ、一点突破全面展開的な爽快感はあるが、当てる光が強いほど描き出せない陰が多くなる。一長一短でどちらとも決めがたい。そこで本書では、この二つの方法のよいところを折衷して、宣長の全貌を描き出すことを目指した。

具体的に言えば、宣長の生涯における各年代にテーマを割り当てて、次のように設定することにした。

二十歳代=学問の出発(第二章)
三十歳代=人生の転機(第三章)
四十歳代=自省の歳月(第四章)
五十歳代=論争の季節(第五章)
六十歳代=学問の完成(第六章)
七十歳代=鈴屋の行方(第七章)

この順番は章立てと対応している。学問に目覚める二十歳代を経て、人生の転換期を迎える三十歳代、自らと向き合う四十歳代、論敵との議論に明け暮れる五十歳代、多くの書物を公刊する六十歳代、死に支度を始める七十歳代という見取り図である。ここに宣長学の概説として「国学の脚本」(第一章)を置いて、全体の導入とした。

宣長が宝暦元年(一七五一)に学問を志し、翌年に京都へ留学し、それから死去する享和元年(一八〇一)までの五十年は、近世文化がもっとも成熟した十八世紀後半にあたる。この五十年間を十年ごとのスパンで区切ると、宣長にとってそれぞれ二十歳代から七十歳代までに相当する。そこで、宣長が人生の各時期において、何を考え、どのような活動をしたかという観点から、それぞれの時期に如上のテーマを設定し、そのテーマごとに宣長の事跡と著作とを関連づけながら叙述していくこととした。

(人文学研究科・教授 田中康二)