シナジーマーケティング 会長 谷井等さん

大学3年の冬、阪神・淡路大震災が発生した。1995年1月17日。大学近くのアパートで暮らしていた友人が、火災に巻き込まれて亡くなった。その後の生き方の原点ともいえる出来事だった。

「命はこんなにも突然失われるのか、と衝撃を受けました。友人は、生きてやりたいことがたくさんあったはず。そう思うと、やりたいことはすぐに挑戦しなければ、と考えるようになりました」

大阪市内の自宅から神戸に向かい、物資が届きにくい小規模避難所の支援に奔走した。しばらくして活動が落ち着くと、毎夜、経営学部のゼミ仲間とビジネスのアイデアを練り始めた。「何かを始めたい」という一心だった。

経営への関心は、洋品店を営む両親のもとで育ったことと無縁ではない。父からは、後継ぎとして期待されていた。大学では、起業家を招く講義に興味を引かれ、授業のたび講師に質問を重ねていた。

震災後、学生ビジネスとして実際に始めたのは、不要になった教科書の買い取り・販売だった。阪神間の他大学の学生とも連携し、学生の“顧客”を増やした。やがて、始まったばかりのインターネットサービスを知ると、学生が休講予定などのさまざまな情報を共有できるポータルサイト運営にも乗り出した。

「インターネットを使っている学生はまだ少ない時代。利用者はあまり集まりませんでした。でも、接続さえすればさまざまな情報が入り、多くの人とコミュニケーションができる。そんなネットの世界を知ったことは大きかったですね」。その後の起業に通じる萌芽が見え始めていた。

NTTを9カ月で退社、ITベンチャーの先駆者に

関西のITベンチャーの先駆者であり、若い起業家の支援を続ける谷井等さん=大阪市北区

現在会長を務めるシナジーマーケティング株式会社は、顧客情報管理システム(CRM)に関連するクラウドサービス、企業のデジタルマーケティング支援などを手掛ける。大阪と東京に本社を構え、関西のITベンチャーの先駆けとして知られる存在だ。

大学卒業後、一度は就職した。ゼミの先輩から誘いを受けて入社した日本電信電話(NTT)。東京本社に配属され、法人営業を担当した。しかし、わずか9カ月で退社した。

「今思えば若気の至りです。でも、『自分で事業を動かしたい』という気持ちが強かった。大きな組織では、それが実現するまでに何年もかかってしまう、と思いました」

退社後の計画はなかった。大阪に戻ると、父が梅田の地下街に出店していた紳士服店の立て直しを任された。通行人の年齢層や服装を観察し、30代のビジネスマンに的を絞ったブランド構成に転換。新装初日にセール品のスーツを並べ、1日で60着以上も売り上げた。この店舗での経験が、後に顧客情報管理システムの事業を展開する土台になる。

紳士服店を営みながら、起業の道も模索していた。頭にあったのは、NTT時代に知ったメーリングリストのサービスだ。「広告を入れ、無料で提供すれば広がるはず」と感じていた。起業仲間はNTTの同期社員で、神戸大学出身の2人。1997年、無料のメーリングリストサービスを提供する会社を立ち上げた。

会社の売却を2度経験。40代で海外放浪の旅へ

起業からの道のりは、まさに波乱万丈だ。2000年、IT業界の動向を見据えて会社を売却。同年、シナジーマーケティングの前身となる会社を設立し (05年に現社名)、07年に上場を果たした。14年、再び会社を売却しヤフーの傘下に入る道を選んだが、17年1月には第一線から身を引いた。

「子会社の社長になって、自分は人の下では働けない人間なんだな、と思いました。40歳過ぎまで上司を持たずに仕事をしてきましたからね。自分のアグレッシブな部分が消えているとも感じました。これでは結果は出せない、と。辞めた後は、プータローです (笑)」

約2年半、日本と行き来を繰り返しながら海外を放浪した。約50カ国を訪れ、街の人々を食事に誘って話を聞いた。「日本から見る世界と、実際の世界の姿は違う」とあらためて気づいた。日本のような米国中心の視点ではない世界がいたるところにあり、中国の影響力は日本で感じるよりずっと大きかった。

そんな充電期間中の2019年。シナジーマーケティングの後任社長から「会社を買い戻す可能性はないか」と、思わぬ提案を受けた。ヤフーの戦略に変化が見え始めたタイミングでもあった。

「自分が『この指止まれ』で始めた会社。そこに集まった社員が頑張ってくれている。自分が戻ることで良い方向に進むのなら、それがいいのかもしれないと感じました」と振り返る。ヤフーとの交渉は順調に進み、同年、全株式を買い戻して経営に復帰した。

「自分の幸せだけでなく、社会の幸せのために」

今年7月、シナジーマーケティングと神戸大学は、ネーミングライツに関する協定を結んだ。六甲台キャンパスにある社会科学系図書館の共用空間・ラーニングコモンズに「シナジーマーケティング101スタジオ」の愛称がつき、記念式典が行われた。

「シナジーマーケティング101スタジオ」の愛称を冠した施設の開設記念式典で、テープカットを行う谷井等さん(右から3人目)=神戸大学社会科学系図書館

自由な校風にあこがれ、入学した母校。大学の先輩から公募の話を聞き、「させてもらえるなら光栄」と手を挙げた。後輩たちに会社の存在を知ってほしいという思いもあった。この協定締結に先立ち、2020年からは神戸大学の客員教授も務めている。

授業で学生に伝えるメッセージがある。「自分の幸せのためだけではなく、社会全体を幸せにするために生きてほしい」という願いだ。「君たちは入学するまでに大変な努力をしたと思う。でも、勉強ができる環境に生まれたことにまず感謝してほしい」と語りかける。

現在、シナジーマーケティングは、自身が代表取締役を務める株式会社ペイフォワード (大阪市) の子会社という形をとる。同社はスタートアップへの投資、多様な分野の事業の企画・開発を進める。例えば、教育をめぐる課題、環境問題、地域創生―。「社会課題の解決」を中核に据え、若い起業家を後押しする。

「自分の琴線に触れる問題があれば、どのような分野でも解決のためのアプローチを考えていきたい」

自分を支えてくれた人々への感謝を胸に、次世代へのペイフォワード (恩送り) を模索し続ける。家業で鍛えられ、震災で気づかされ、神戸大学で芽吹いた根っからの起業家精神は、今なお衰えることがない。

略歴

たにい・ひとし 1972年、大阪市生まれ。92年、神戸大学経営学部入学。96年卒業。同年、NTT入社。97年、合資会社デジタルネットワークサービス (後の株式会社インフォキャスト) を設立し、2000年に楽天に売却。05年、シナジーマーケティング代表取締役。17年、ペイフォワード代表取締役 (現職)。19年、シナジーマーケティング会長 (現職)。20年、神戸大学客員教授 (現職)。座右の銘は「他人のおかげ。自分のせい」 (うまくいけば誰かのおかげで、失敗は自分のせいと考える)。大阪市在住。