「雰囲気学」という学問分野を創出する取り組みが、神戸大学を拠点に始まっている。わたしたちは「雰囲気がいい」「悪い」といった表現を日常的に使うが、その実態は何なのか。学術的に探究していこうと、昨年設立された研究組織が「神戸雰囲気学研究所」 (KOIAS=コイアス) だ。人文学研究科を中心とし、分野を横断して学内外の研究者が集う。「雰囲気学」の現在、今後の目標などについて、代表を務める人文学研究科の久山雄甫准教授 (近代ドイツ文学) に聞いた。
雰囲気を言語化する
雰囲気学とはどのような学問なのでしょうか。
久山准教授
「雰囲気」はわたしたちにとって身近な現象ですよね。「時代の空気」「会議の雰囲気」「場のムード」といった言葉を日常的に使います。しかし、「雰囲気とは何か」とあらためて問われると、答えるのは難しい。その現象を学術的に扱えるようにしたい、というのが出発点です。いわく言いがたい雰囲気というものを言語化して、基礎的な語彙 (ごい) を整備し、概念を作り上げたいと考えています。
ここ数年、雰囲気に注目する研究者がヨーロッパを中心に増えています。しかし、研究者は各地に点在しており、包括的な新学術領域を立ちあげるところまではいっていません。
神戸雰囲気学研究所は、哲学、歴史学、文学、芸術学、建築学などさまざまな分野の研究者によるネットワークです。雰囲気というテーマに特化した分野横断的な研究所は世界的にも初めてだと思います。文化や地域の枠組みも超えて、研究を展開していこうとしています。
具体的にどのような研究を進めていますか。
久山准教授
今年、人文学研究科がまとめた「人文学を解き放つ」 (神戸大学出版会発行) という本があるのですが、「雰囲気学」の章で、わたしを含め3人のKOIASメンバーがいくつかの論点を紹介しています。
研究所として注目している分野のひとつは建築です。建築や都市のデザインにとって、雰囲気は要といっていいかもしれません。わたしたちがよく口にする「住み心地」や「場の空気感」とはいったい何なのか。そういう「何となく感じているもの」を言語化したいと思います。例えば、街の中で気になった建物や風景、道路などの構造物を人々に撮影してもらい、感じたことを書いてもらう。そして、その中から共通する形容詞やキーワードを抽出し、データを作るというプロジェクトを進めている研究者もいます。
より広く、芸術一般の検討も進めていきたいと思います。現代には、絵画を鑑賞するという視覚的なものだけではなく、身体の全体で感じるようなアートの潮流があります。雰囲気と結びついたアートと捉えられるでしょう。研究所として美術館の展覧会に協力する取り組みも進めています。芸術は、今後の社会で起こりうることを先取りする側面があるので、重要だと考えています。
そもそも、雰囲気に注目したのはなぜですか。
久山准教授
もともと雰囲気という現象に興味を持っていたことに加え、研究分野との結びつきがあります。わたしの現在の専門はドイツ文学で、主にゲーテを研究しています。ゲーテは詩人、作家として知られていますが、自然科学者でもあり、「色彩論」という大著では色彩が人間に与える影響を取り上げています。「黄色はあたたかく心地よい印象を与える」「青色には寒々しい感じがある」と、いわば「色の雰囲気」に言及しています。
ゲーテは、文学作品の中でも雰囲気といえるものを描写しています。代表作「ファウスト」で、主人公のファウストが愛する女性マルガレーテの部屋に忍び込んで逃げた後、帰宅した彼女が「何か違う」と感じる場面があります。物理的な変化はないのに、部屋の雰囲気が変わっている、ということですね。
ゲーテの研究を通じ、雰囲気論の基礎をつくったといえるのが、ドイツの哲学者ヘルマン・シュミッツ氏 (1928-2021) とゲルノート・ベーメ氏 (1937-2022) です。シュミッツ氏は若いころゲーテ論の大著を発表し、その後、きわめて独創的な哲学体系を打ち立てました。その成果を吸収しながら雰囲気の研究を展開したのがベーメ氏で、ゲーテ研究の学者でもありました。わたしは大学院時代、ドイツに留学し、ベーメ氏が指導教授でした。ゲーテを研究してきた立場からすると、雰囲気学は新たに始めた領域というより、それまでの延長線上にある感覚です。
文化や地域の枠を超えた共通性を見る
「気」や「空気」というと、東洋で研究されているイメージがありますが。
久山准教授
ドイツで書いた博士論文のテーマが、実は「気」でした。分野としては、比較文学、比較思想の研究です。ドイツ語で書籍化しましたが、日本語のまま「ki」と表現しています。この本で強調したのは、「気」は人間の内と外を常に交流しており、身体の内側にも外側にもあるという考え方です。「気が通じ合う」といった表現がある日本では、理解されやすいと思います。
一方、近代ヨーロッパでは、人間の内側と外側を完全に分け、個を「閉じた存在」と考えることが一般的で、これが現代社会でも前提にされてきました。天の「気」、つまり天気と人間の関係で考えればよく分かると思います。例えば、どんなに晴れて気持ちがよい日でも、曇って陰うつな日でも、人間が裁判で下す判決は変わってはいけない。それが現代の人間観であり、理想像ですよね。
日本の学術界でも、そうした近代ヨーロッパの思考モデルが基礎になってきました。しかし、その考え方は「本当にそうなのか」と問い直せる部分があると思うのです。従来のヨーロッパ由来のモデルからは漏れ落ちるものがある、ということです。さきほど「雰囲気論」の研究者として挙げたベーメ氏は、新しい考え方として「主観と客観の間」や「準客観」という表現を使いました。
ただ、近代ヨーロッパのモデルを批判しつつも、雰囲気学がオリエンタリズムやエキゾチズムに傾倒することがあってはいけません。異なる文化や分野との対話を通じて、共通性と個別性を具体的に明らかにしていきたいと考えています。実は、ヨーロッパの思想の歴史を見ても、「気」に似ている「プネウマ」 (ギリシャ語) や「ガイスト」 (ドイツ語) という言葉があります。
「雰囲気を気にする」「空気を読む」という文化は日本特有だ、とよく言われます。「同調圧力」という言葉もあります。この点はどう考えますか。
久山准教授
よく知られている「『空気』の研究」(山本七平著) は、日本特有だという「空気」の支配について書いています。日本が戦争に突き進んでいった時代の空気を知る山本氏が、自身の経験をベースにさまざまな側面から戦後社会を論じています。正式な会議と、後の酒席の結論が異なるといった例などにも触れ、一般書としてよく読まれています。
日本論として、着眼点は面白いと思います。ただ、学術的にみると不十分な面があります。例えば、日本の全体主義はドイツやイタリアと比べ、違うものだったのか。日本特有とされるものは、実際にそうなのか。そうした批判的視点で見ていく必要があると思います。
日本は近代ヨーロッパの思考モデルを基礎にしてきた、と言いましたが、この「近代」という歴史性を見ることも重要です。雰囲気という言葉は、近代になって生まれています。英語でもドイツ語でも17-18世紀に使われるようになりました。つまり、雰囲気は近代的な概念といえます。
しかし、近代ヨーロッパ以外の世界、近代という時代の前に「雰囲気の経験」がなかったわけではないでしょう。前近代や非ヨーロッパ世界にこそ新しい考え方のヒントがあるかもしれません。
例えば日本では、翻訳された語として「雰囲気」が広く使用され始めるのは明治時代で、江戸時代にその言葉はありませんでした。しかし、江戸時代には「雅/俗」の対比や、先ほど説明した「気」に加え、「色」や「~風 (ふう)」など、さまざまな表現がみられます。わたしたちはこのような点に着目し、現代と比較しながら、雰囲気の文化史研究を広く進めつつあります。
国際的な研究ネットワークのハブに
今後の研究の課題、研究所の将来像などについて聞かせてください。
久山准教授
雰囲気学は新たな学術領域ですが、国際的には今まさに注目されつつあるテーマだと思います。人工知能という、身体を持たない知性が現実化しているからこそ、身体性を伴う雰囲気の再検討が求められているのかもしれません。
わたしたちは「雰囲気がいい」ことをプラスに捉えがちですが、そうした点も考える必要があるでしょう。いい雰囲気とは、異分子を排除した結果ともいえるからです。また、雰囲気はデータ化、数値化するのが困難という研究の課題もあります。特定の面を切り取って数値化すると、違うものになってしまう。どのようなパラメータがありうるかも、研究していくべきテーマです。研究所では、島津製作所 (京都市) との共同事業も進めています。
この1年あまりで、研究所はイタリア、ドイツ、カナダ、スロベニアの研究機関と協定を結びました。台湾の組織との協定も検討しており、イタリアから哲学と建築学の研究者を招聘 (しょうへい) する予定もあります。将来、この研究所が国際ネットワークのハブになり、「雰囲気学といえばKOIAS」と言われるようになれば嬉しく思います。
久山雄甫准教授 略歴
2006年3月 | 京都大学総合人間学部 卒業 |
2008年3月 | 京都大学大学院人間・環境学研究科 修士課程修了 |
2009年4月 | ダルムシュタット哲学実践研究所 (ドイツ) 客員研究員 |
2011年4月 | 日本学術振興会 特別研究員 |
2013年5月 | ダルムシュタット工科大学 博士号取得 |
2013年10月 | 神戸大学大学院人文学研究科 講師 |
2016年8月 | 神戸大学大学院人文学研究科 准教授 |
2021年3月 | 京都大学大学院人間・環境学研究科 博士号取得 |
2022年4月 | 神戸雰囲気学研究所 代表 |