即興演奏とは、本当に「即興」なのでしょうか?一見その場で「自由」に演じられているように思える即興演奏に、実は様々な言語化されていない「ルール」が存在していること、そしてそれらが必ずしも「制約」のような否定的なニュアンスを持っているわけではなく、むしろ文化による「自由」という言葉の意味の幅広さを示唆していることなどを、神戸大学大学院人間発達環境学研究科の谷正人准教授が明らかにしました。
谷准教授は主に、口頭性(Orality 楽譜を用いず口伝えであること)と身体性(Physicality 楽器ごとに異なる「手指や身体の使い方」がどう音楽に影響しているか)という観点から、イランにおいて音楽レッスンへの参与観察を行いました。その結果、当地の即興演奏は、共有されている音楽的語彙(決まり文句)を演奏の瞬間に「思い出し」たり「言い換える」ことによって成り立っていること、ペルシア語(古典詩)の朗誦リズムに大きく影響を受けていること、テトラコード(※1)ごとに異なる弦楽器ネック上の手指のフォームに対する記憶が即興演奏の自由度に大きく関係していること、などを明らかにしました。
これらの知見は、「音楽が音だけではなく、手指・身体の使い方と関連しながら成り立っていること」「我々が当たり前に使う楽譜にそれほど頼らない世界においては、音楽の記憶の在り方やそれに伴うオリジナリティの考え方も異なること」、そしてこうした知見そのものが、西洋クラシック音楽だけを見ているだけではなかなか知り得ない、中東や異文化理解の大きな契機となるなど、国際社会に生きる我々とも決して無縁ではない気付きを提供しています。
本研究成果は、2024年2月に日本学術振興会(研究成果公開促進費-学術図書)からの助成を受け『Traditional Iranian Music -- Orality, Physicality and Improvisation』(Trans Pacific Press社)として出版されました。
ポイント
- 従来のイラン音楽研究のスタンス(楽譜の存在を自明視すること)を疑い、楽譜に頼らない音楽文化において音楽的記憶とは、一音一音を忠実にたどる逐語的なものではなく、共有されている音楽的語彙(決まり文句)を演奏のたびに(意図せず少しずつ異なった形で)「思い出す」ことを指しており、結果そこでは近代西洋(クラシック音楽)とは異なった「オリジナリティ」「個性」の感覚があることを指摘した。
- 先行研究のように「音楽を音を中心に考える」だけではなく、それを鳴らしている身体を十分に考慮したうえで、以下のような即興演奏についての新しい知見を得た。テトラコードごとに異なって形成される手指のフォーム(手癖)の記憶は、転調を含む即興演奏の自由度に大きく貢献している。即興演奏は、音のみならず「手癖」にも導かれている。またその様相は、それぞれ音階の配置の仕方が異なる楽器の種類ごとにも大きく差異が見られる。つまり演奏する楽器が違えば、そこで必要となる手指・身体の使い方も異なり、即興演奏の自由度にも質的な差が出る。
- これまでの研究でも指摘されてきた「イラン音楽とペルシア古典詩の韻律の関係性」を、実際に即興演奏が教えられている現場に繰り返し参与観察することで、より具体的にその方法の実際(どのように詩の韻律を音楽のリズムに変換し、さらには音楽の終止感とも一致させているのか)を分析・報告した。
- 即興や規範という概念を巡る人々の意識や思考を、それを成立させている背景にまで立ち入り、その上で「文字の文化」側である研究者側の意識も問い直そうとする本研究は、音楽文化を対象にしながらも、なかなか欧米の視点では見えないものを見ようとしている点で、昨今の重要なテーマである中東理解という課題とも共通する問題意識を備えている。
- 日本人として初のイラン音楽に関する英語書籍の刊行により、ネイティブであるイラン人がなかなか意識化することがなかった「声の文化」的特質や「(音楽は音や楽譜だけではなく、音を発している身体と連動して捉えるべきという)身体性」といった観点を提示した。
研究の背景
民族音楽学においてこれまで「即興」という概念はたびたび検討の対象となってきました。即興演奏を行なう音楽家は、全く無の状態から音楽を生み出しているわけではなく、予め即興というパフォーマンスの基盤となるものを準備している――民族音楽学はこのような考え方に基づき、世界の多種多様な音楽文化における「パフォーマンスの基盤となるもの」の内実の解明をこれまで研究の中心課題としてきました。そしてその一方で、即興演奏とはこのような予め体得された「ルール(=義務的要素)」に基づきつつも、演奏のまさにその瞬間に演者が「個性を自由に発揮する」ことによってなされるのだと認識してきました。すなわちこれまでの研究は、即興演奏というものを最終的には音楽家個人の自由や創造性の中で捉えようとしてきたと言えます。
しかし彼らの即興演奏を観察していると、客観的にみるところの同じ演奏を「違う」と称したり、逆に異なる演奏を「同じ」だと称する事態に頻繁に出くわします。
我々と異なったこうしたイラン人の即興に対する認識がいかなる感覚に基づくものなのかを考察するにあたって谷准教授は、「(口頭伝承を基本とする)声の文化」的精神と「(楽譜の存在を自明とする傾向の強い)テクスト文化」的精神という対比項を設定し、イランの音楽では演奏者にとってそもそも「自由」や「個性を発揮」というようなあり方が、近代西洋的な意味合い(義務的要素と対置されるような字義通りの概念)としては存在しにくいことを明らかにしました。
ここまでの知見は、谷准教授の過去の研究でも言及されていましたが、本英語書籍においてはさらに未公開の知見として、これまで詳細には言語化されていなかった即興演奏における無意識のルールの実態を、「身体性」「言語リズム」という観点から詳細に分析したものが掲載されています。
研究の内容
①谷准教授は、W・オングが提唱した「声の文化」と「文字の文化」という対比(Orality and Literacy 1982)を、「口頭で音楽が伝承される文化」と「楽譜が重要な役割を果たしている文化」との違いとして援用しました。
例えば研究者がよく行うように、2つの譜例を比較したとします(図1)。これらの楽譜を「見る」ものにとっては、両者は明らかに異なったものです。しかしこれらの音楽を音声のみで認識し伝承するものにとって、その捉え方は異なります。まずこの2つの旋律は同じ名称でこれまで伝承されてきたもので、社会に共有されているものです。ここでの違いは、「個性が刻印された違い」というよりは、「同じものを言い換えた」という違いです。「声の文化」において旋律の記憶とは、書き留められないおぼろげな「思い出」(Peabody 1975:216)のようなもので、「すぐに消えてしまう」音声がデフォルトな世界では、この2つの音楽は「同じもの」として認識される傾向が強いのです。
しかし、我々が無意識のうちにそうし慣れているように、この2つの音楽は視覚的に捉えることによってこそ、逐語的・自律的に「見える」-それぞれが異なったもの、そして「誰かのもの」として認識され、消えずに後世にも残ります。結果、近代的な「作者」「作品」概念とも結びついて行くのです。楽譜を使うか否かによって両者にはこうした認識上の違いがあることを谷准教授は明らかにしました。
また谷准教授はこのことをさらに展開し、即興演奏の説明としてよく使われる「一回限り」の意味にも文化的な差があることを指摘します。すなわち、「文字の文化」においては、導き出された演奏結果(プロダクト)が一回限りと考える傾向がある一方で、「声の文化」においては、音楽を導き出す内的なプロセスがその都度ある(一回限り)とする傾向がある――すなわち、「研究の背景」で例として挙げたように、演奏者が自覚していなければ、「客観的に同じ」演奏を繰り返して「私は一度として同じ演奏はしていない」と宣言することさえ出来る、という感覚が生成されるのです。谷准教授はこうした事例を通して、イラン音楽が、楽譜を前提とする近代西洋音楽とは全く異なった感覚のもとに営まれていることを明らかにしました。
② 一般的に、私たちがよく耳にする「〇〇音楽を専門としている」という言葉の内実は、実はかなり人によって差があるものです。人が音楽を抽象的に想像しようとする場合でさえ、音そのものだけを他の要素から切り離して思索しているとは限りません。ピアノにたしなみがあるものは無意識に、ピアノ構造やそれを弾く身体の限界(やメリット)のなかで音楽を扱うでしょうし、歌によりたしなみのあるものは、声域という制約のなかで、しかし「声の肌理」のようなメリットを無意識のうちに享受しながら音楽をつくるでしょう。
谷准教授はこの観点をイラン音楽に援用し、様々な楽器奏者がイラン音楽という共通の土台を経験しつつも、どのように互いに異なった身体感覚を持ちながら音楽を営んでいるのかを明らかにしました。
特に注目したのが、セタール(「3弦」を意味するフレット付き長棹撥弦楽器)(図2)などの弦楽器奏者らが複数のテトラコードの違いを、手指のフォーム(手癖)の違いとしても認識しているという点です。演奏者は、様々な音階構造を聴覚だけからではなく触覚からも認識しており、そのことにより、手癖という身体性に導かれながら転調を含む高度な即興演奏を展開する実態があることを明らかにしました。本英語書籍に掲載されている転調を含んだ即興演奏の実例分析は、その実態を詳細に明らかにしたこれまで未公開のものとなっています。
③ イラン音楽がペルシア古典詩の韻律に大きな影響を受けていることは、これまでの研究でも繰り返し指摘されてきました。谷准教授は、実際に即興演奏が教えられている現場に繰り返し参与観察を行い、どのように詩の韻律を音楽のリズムに変換しているのか、さらには音楽の終止感とも一致させているのか、その方法論をより具体的に分析・報告しました。本英語書籍に掲載されている即興演奏の実例分析は、その実態を詳細に明らかにしたこれまで未公開のものとなっています。
今後の展開
本研究は、イラン音楽という一見マイナーな存在を扱いつつも、近代西洋芸術音楽をモデルとした「作者・作品・創造性・オリジナリティ」概念の見直しといった問題意識を持っており、音楽教育のみならず、無意識のうちに「近代西洋のシステム」に基づいている私たちの日々の価値観の見直しにも繋がる可能性を有しています。
・また第6章「 Change in the context for learning improvisation: The influence of writing on Iranian music(即興演奏を学ぶコンテクストの変化:イラン音楽における「書くこと」の影響)」では、徒弟制度をはじめとした声の文化圏における教育の特質やその現代的な変容がトピックとなっており、学ぶ・教えるとは何かといった教育上の問題を考える上でも示唆に富んでいると言えます。
・谷准教授は、イラン音楽の研究者のみならず、ピアノの祖先とも言われるサントゥールという伝統楽器の演奏者でもあるため(図5)、レクチャーコンサートなどの開催実績も多数あります。現在は演奏活動に加え、サントゥールのバチの運動制御の研究や、その成果を活かした日本語として初めてのサントゥール教則本の執筆などに取り組んでおり、演奏実践と研究を融合させた取り組みの、今後の益々の進展が予想されます。
用語解説
※1 テトラコード
「ドレミファ」や「ソラシド」など、4つの音を一つのまとまりとする考え方のこと(専門的には4音列から成る完全4度の枠のこと)であり、諸民族の音楽における音階構造を考える際には、オクターヴ単位(例:ドレミファソラシド)ではなくこのテトラコードに分解して考えてみる方が音の動きの理解の上でも有効である場合が多い。
謝辞
本研究成果は日本学術振興会(研究成果公開促進費-学術図書 22HP6001)からの助成を受けて出版されました。
書籍情報
書名:Traditional Iranian Music - Orality, Physicality and Improvisation
出版社:Trans Pacific Press Co., Ltd
ISBN:9781920850357
https://transpacificpress.com/collections/new-arrivals/products/traditional-iranian-music