神戸大学大学院システム情報学研究科の栗﨑以久男特命講師と田中成典教授は、化学反応に伴い化学種が変化する効果を低コストの分子シミュレーションで実効的に扱う手法を開発し、Rasタンパク質のGTP加水分解反応により放出されるエネルギーの一部が、熱散逸を逃れてRasタンパク質のP-loopに保持されることを発見しました。(P-loopは様々なGTPおよびATP加水分解酵素に共通する構造モチーフです。)

今後、P-loopの役割の再考を促すとともに、人工的機能性タンパク質の設計原理に利用されることが期待されます。また、開発した手法は、汎用的な複雑化学反応シミュレーションの基礎技術になる可能性があります。

本研究成果は、11月5日付で、英国王立化学会発行の物理化学誌「Physical Chemistry Chemical Physics」に掲載され、2021 PCCP Hot Articlesに選出されました。

ポイント

  • アデノシン三リン酸(ATP)やグアノシン三リン酸(GTP)の加水分解反応によるタンパク質への力学的仕事発生メカニズムに関しては、原子レベルでは未だにわかっていないことが多い。
  • 今回、この反応の初期過程において反応生成物の間に働く静電斥力が力学的仕事を生じるという仮説に注目した。
  • 化学反応の効果を実効的に取り込める低コストの分子シミュレーション手法を開発し、GTP加水分解タンパク質Rasに適用した。
  • 仮説で注目している素過程では、反応により生成するエネルギーがすぐに熱散逸するため、力学的仕事に使えないことが分かった。
  • 一方、Rasタンパク質のリン酸結合ループに、解放される化学反応エネルギーの半分程度が保持されることを明らかにした。
  • 原子レベルでの熱エネルギー生成過程とは無関係に、化学種の変化だけでタンパク質の機能制御が成されることから、生体分子が頑強に機能設計されていることが示唆された。

研究の背景

アデノシン三リン酸(ATP)やグアノシン三リン酸(GTP)の加水分解反応は様々なタンパク質の機能発現に用いられています。一方、この化学反応で発生するエネルギーが生体分子中で力学的な仕事として使われる仕組みは、原子レベルではよくわかっていません。

加水分解反応によりアデノシン二リン酸(ADP)やグアノシン二リン酸(GDP)、無機リン酸が生じる際、これらの間に静電斥力エネルギーが発生します。それが分子運動エネルギーに変換されてタンパク質に対する仕事として使われるという仮説が、Rossにより2006年に提案されています[1]。しかし、この仮説は関与する分子を単純な荷電球体と見做した非常に簡単なモデルに基づき提案されたものであるため、その妥当性には検証の余地がありました。

そこで、分子の複雑な形と相互作用を扱うことができる分子動力学シミュレーションを用いて、原子レベルでの化学反応を追跡する方法により、Rossの仮説の検証を検討しました。しかしながら、シミュレーションにおいて自然に生化学反応を起こすことは、計算コストの観点から現実的ではありません。そのため、分子種を切り替えることで化学反応を実効的に扱える手法[2]に注目し、複雑な化学種の変化を扱えるように拡張して、細胞内シグナル伝達に関わるGTP加水分解酵素Rat Sarcoma(Ras)に適用することにより、加水分解反応がRasタンパク質に及ぼす効果を定量的に解析しました。

参考文献
[1]Ross J., J. Phys. Chem. B 110, 6987 (2006);[2]Takayanagi M.; Nagaoka M., Theor. Chem. Acc. 130, 1115 (2011).

研究の内容

今回、栗﨑らは、反応物・生成物変換のモデリング法を提案し、ATPやGTP加水分解に伴う分子種変化(ADPもしくはGDPと無機リン酸の生成)効果を実効的に取り込むシミュレーション手法(力場切替型反応モデリング法)を確立しました。そして、本手法をRasタンパク質系に適用し、GTP加水分解反応に伴う運動エネルギーの生成を確認しました。その結果、Rossの仮説に反して、生成された運動エネルギーは、数ピコ秒(=10-12秒)という短時間で、運動の方向性を失い、熱として散逸することが分かりました。これは、Rossの予想に反して、力学的仕事に使えないことを意味します。

一方、加水分解反応で生じるエネルギーの一部が、Rasタンパク質のリン酸結合ループ(P-loop)の構造の歪みとして保持されるということが分かりました。興味深いことに、「力場切り替え」に伴う運動エネルギーの生成を抑制しても、このP-loopのエネルギーの増加は観測されました。このことから、反応に伴う熱の発生ではなく、GTPからGDPに化学種が変化することそのものが、利用可能なエネルギー増加の原因と分かりました。

熱は短時間で周囲に拡散するため、仕事に用いることが難しいエネルギーと考えられています。そのような熱には依存せず、分子間の相互作用のみによって機能制御が起こることは、タンパク質の頑強な設計という点で合理的と言えます。

今後の展開

本研究では、Rasタンパク質に関してP-loopのエネルギー貯蔵箇所としての役割を明らかにしました。Ras以外のGTP加水分解タンパク質やATP加水分解タンパク質でも同様の役割があると期待され、P-loopの役割を再検討する契機になると考えます。近年、これらの加水分解タンパク質を人工的に設計する研究が注目を集めており、今回得られた知見は、人工タンパク質分子の設計を行う際の基礎知識となる可能性があります。

また、今回開発した手法は、ATPやGTPの加水分解反応に限らず様々な化学反応に対して汎用的に用いることができます。近年、様々な化学反応が同時多発的に進行する現象をシミュレートすることが注目を集めています[3]。本手法は、そのような研究において、タンパク質に限らず化学反応を実効的にシミュレートするための基礎技術になると考えています。将来的には、実験ではとらえきれない原子レベルでの化学反応のメカニズムを明らかにすることが可能となり、生命の設計原理にも分子レベルから迫ることができると期待しています。

参考文献
[3] Nagaoka M. et al. Chem. Phys. Lett., 583, pp. 80-86 (2013)。

謝辞

 本研究は、文部科学省科学研究費助成事業・新学術領域研究「分子夾雑の生命化学」(課題番号:JP17H06353)ならびに光・量子飛躍フラッグシッププログラム(Q-LEAP)量子計測・センシング技術領域「量子生命技術の創製と医学・生命科学の革新」(課題番号:JPMXS0120330644)の助成を受け実施しました。また、計算機の利用に関し、分子科学研究所共同利用研究の支援を受けています。

論文情報

タイトル
Elucidating microscopic events driven by GTP hydrolysis reaction in the Ras-GAP system with semi-reactive molecular dynamics simulations: the alternative role of a phosphate binding loop for mechanical energy storage
DOI:10.1039/D1CP04061H
著者
Ikuo Kurisaki, Shigenori Tanaka
掲載誌
Physical Chemistry Chemical Physics, 2021, 23, 26151-26164.

関連リンク