片桐恵子・ウェルビーイング先端研究センター長

「ウェルビーイング」という言葉が広く使われるようになった。身体的、精神的、社会的に良好な状態にあることを示し、「幸福」という日本語に訳されることもある。ただ、その概念は幅広く、関連する研究分野も多岐にわたる。神戸大学は2022年、研究、教育、地域連携を推進する全学組織・ウェルビーイング推進本部を創設し、学際的な研究活動の拠点として「ウェルビーイング先端研究センター」を設置した。センターは何を目指し、どのような取り組みを行っているのか。センター長の片桐恵子教授(社会老年学、社会心理学)に、研究の現状や今後の展開について聞いた。

「社会のウェルビーイング」という視点を

まず、ウェルビーイングという概念について、どのように理解すればよいでしょうか。

片桐教授:

1948年に発効した世界保健機関(WHO)憲章で、「健康」について「病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、社会的にも、すべてが満たされた状態(well-being)にあること」と定義され、この中にウェルビーイングという言葉が使われています。

近年は、この「健康」の定義がウェルビーイングの説明に置き換えられていることが多いのですが、使う文脈や人によって意味するところはさまざまです。便利に使われている傾向があり、定義はあいまいです。

一般的には個人の幸福を示す言葉と考えられがちですが、重要なのは社会全体、地球規模で考える視点です。「個人が幸せなら自然環境が破壊されてもいいのか」と考えれば、そうではないですよね。個人の幸せだけでなく、人間を取り巻く環境や社会のウェルビーイングというものを追求していく必要があります。

ウェルビーイングが注目されるようになってきた背景には何がありますか。

片桐教授:

1970年代後半、アメリカの政治学者ロナルド・イングルハートが「物質主義的な価値観から脱物質主義的な価値観へのシフト」という世界の動きを示したように、先進国では、物質的に満たされても人々が幸せになっていない、ということに気づき始めました。

日本も戦後、物質を満たすことを目指してきたわけですが、今の若い世代にとってはモノがあることが当たり前で、例えば「車が欲しい」といった望みを持つ傾向も薄れてきています。また、高度経済成長期は、多くの人が同じ方向を目指し、マジョリティーにとっての幸せが追求されましたが、現代は価値観が多様化して個人がそれぞれの生き方を求めています。GDP(国内総生産)では幸せを測れない時代になっています。

そのような流れの中で、政策立案、ビジネス戦略など幅広い分野でウェルビーイングが注目されるようになりました。若者の多くは就職に際し、企業が社員一人ひとりの幸せを考えているかという点を重視しており、企業側も人材確保のため、そういう視点を打ち出すようになってきました。

異分野共創、国際連携で研究を推進

神戸大学ウェルビーイング先端研究センターが目指す方向性とは?

片桐教授:

ウェルビーイングの推進に取り組む団体や研究拠点は全国的に増えていますが、どちらかというと個人の健康や生きがいに注目しているケースが多いと思います。しかし、先ほども言及したように、真のウェルビーイングの実現には、個人と社会の双方のウェルビーイングを高める視点が欠かせません。私たちのセンターが考えるビジョンを分かりやすく示すと、図1のようになります。

【図1】ウェルビーイング先端研究センターがビジョンとして掲げる概念図

センターの研究領域は「健康」「発達」「環境」の3部門で構成され、保健学、老年学、心理学、経済学、公衆衛生学、健康科学など多様な分野の研究者が関わる異分野共創、学際的研究が大きな特徴です。生まれてから亡くなるまでの生涯にわたるウェルビーイングをいかに実現するかを検討し、「発達」という観点から人生の各段階におけるウェルビーイングの変化、そこに影響する要因についても明らかにしていこうとしています。

センターのあり方としては、組織を大きくするというより、さまざまな機関や研究者をつなぐハブの機能を持つことが重要だと考えています。

日本は、高齢社会という面で世界の最先端の国です。老年学などの分野は海外からの注目度も高く、ウェルビーイングは国際連携を進めるのにふさわしいテーマです。実際、センターにはさまざまな国の研究機関から連携の依頼が寄せられます。日本特有の考え方として海外でも関心が高い「生きがい」について講演してほしい、といった要望もあります。若手研究者には海外での研究発表、国際連携を積極的に進めてほしいと思っています。

開設から約2年半、具体的にはどのような研究を進めてきましたか。

片桐教授:

現在取り組んでいるコア研究としては、3大都市圏の18歳から74歳までの約4千人を対象に、さまざまな角度からウェルビーイングに関する調査を行う「Kobe Well-being Study(神戸ウェルビーイング・スタディー)」があります。神戸大学の一組織である「未来世紀都市学研究アライアンス」とも連携し、長い人生スパンのウェルビーイングについて明らかにしていこうとしています。

 

神戸大学が「異分野共創で切り拓くウェルビーイング社会」をテーマに開いたシンポジウム(2025年2月)

健康に関する行動変容について各個人に最適な支援法を確立するための研究や、高齢者の就労とウェルビーイングに関する調査研究も進めています。神戸大学が「健康長寿」など5領域の拠点を中心に形成している革新的研究基盤「デジタルバイオ・ライフサイエンスリサーチパーク」(DBLR)と連携し、具体的な支援方法の構築まで視野に入れた研究を行っています。

センターに所属する研究者それぞれのテーマも、認知症予防、社会的孤立の予防、運動習慣、国際的な感染症対策、環境が人間のウェルビーイングに与える影響など、実にさまざまです。こうした研究の成果をできる限り、社会に還元していきたいと思います。

神戸を拠点に研究するメリットはありますか。

片桐教授:

今、日本では人口の半分以上が都市部に住んでおり、団塊の世代以降、都市部に住む高齢者が急増していきます。以前は、高齢者研究といえば、過疎化が進む郡部の課題に関心が集まっていましたが、今後は都市、地方の違いにも注目していく必要があります。

その点で考えると、兵庫県は、神戸などの都市部と過疎地の両方の問題にアプローチできる地域といえます。首都圏などと異なり、神戸は住民の顔が見えやすい規模の街であり、大学が立地している場で研究、実践を進められる利点があります。

 

「サードエイジ」に焦点 地域での実践も

個人としての研究テーマを教えてください。

片桐教授:

社会老年学を専門とし、特に退職期から比較的元気なシニア期を指す「サードエイジ」について研究しています。「人生100年時代」といわれる中で、サードエイジの就労、社会参画のあり方、それを支える社会システムについて実証的な研究を進めてきました。退職後の人生が短かった時代と違い、現代はこの時期の生き方が幸福な老いにとって重要になっています。

退職後の地域デビューがうまくいかず、孤立する高齢者は少なくありません。また、アクティブに活動しているようにみえる高齢者でも孤独を感じている人がいます。そういう社会的孤立、孤独を予防するコミュニティの構築について研究・実践を進めています。

その一例が、UR都市機構と連携し、神戸市内の賃貸住宅団地で取り組んでいる実践です。賃貸住宅の高齢者は、持ち家や、管理組合がある分譲マンションに比べ、近隣とのつながりが薄く、孤立、孤独のリスクが高いといわれています。そこで、緩やかなつながりを構築する場を作り、講座やイベントを行っています。

 

神戸大学とUR都市機構が連携して開催しているサードエイジの交流・学びの場「ワイがやカレッジ」(神戸市灘区)(片桐センター長提供)

サードエイジのシニアの場合、「介護予防」「シニア向け」を前面に出すイベントは敬遠しがちです。孤立、孤独予防といった目的を表に出すのではなく、グループディスカッションを取り入れた学び、大学の知見を生かした講座、楽しめるイベントなどを通し、社会関係の重要性に自然に気づいてもらえるようなプログラムにしています。始めてみると、自身のサードエイジのあり方を模索している人々が積極的に参加してくれているように思います。

近年は「健康寿命をいかに延ばすか」ということに関心が向きがちですが、病気であってもそれぞれの幸せはあるはずです。障害者のウェルビーイングにも共通することではないかと思います。こうした視点は今後の研究、実践の中でも重視していきたいと思います。

研究者が出会う場をつくりたい

センターで今後取り組みたいことは?

片桐教授:

アメリカのハーバード大学は、1938年から同じ対象者を追跡し続け、人生の幸福にとって重要な要素を明らかにする「成人発達研究」を行っています。このような大規模、長期的調査を日本でも実施したい、という希望があります。昨年、ハーバード大学の研究者に研究の苦労などを聞いたのですが、対象者に対するきめ細かいフォローがあるからこそ、調査の途中離脱者が少ないとのことでした。

こうした縦断的調査をすぐに行うのは難しいのですが、まずはKobe Well-being Studyのような横断的調査など、独自の研究実績を残していきたいと思います。

また、センターがさまざまな研究機関のハブとなるための取り組みも始めたいですね。「カフェ・ウェルビーイング」というような場を定期的に開き、研究者が出会う機会を作りたいと考えています。そういう場が、異分野共創の研究を進めるきっかけにもなると思います。

片桐恵子教授 略歴

1986年、東京大学文学部(社会心理学)卒業後、日本火災海上保険入社。1996年、日本興亜福祉財団社会老年学研究所主任研究員。2003年、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。2006年、博士(社会心理学)。2013年、神戸大学大学院人間発達環境学研究科准教授。2018年、同研究科教授。2022年から神戸大学ウェルビーイング先端研究センター長も務める。

研究者

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