
著書「教育投資の経済学」が、2024年度の「日経・経済図書文化賞」に選ばれ、社会の耳目を集めた。生成AIの普及、グローバル化、人口減少など、子どもを取り巻く環境が急速に変化を続ける中、教育の在り方や学校環境にも変革が求められる。社会の多様化に対応できる学び直し(リスキリング)や教員の働き方改革など、学校や教員の役割も大きくクローズアップされている。教育経済学、労働経済学を専門にする経済学研究科の佐野晋平教授に、「教育」をテーマとする日本の課題、それに対して私たちはどう対応すればいいのかを聞いた。
いい大学に行くと給料が上がるのか
著書「教育投資の経済学」が、教育の課題を経済学の手法で分析し、注目を浴びました。
佐野教授:
世の中には、教育にまつわる問いがたくさんあります。「いい大学に行くと、給料が上がるのか」「学校のクラスのサイズを小さくすると、学力が上がるのか」「高校授業料の無償化は本当にいいことなのか」「先生の給料を上げると、学力がよくなるのか」などが考えられます。経済学のフレームワークを使うと、どのように考えることができるのか、日本の状況をデータからどう分析できるのかを、できるだけ幅広く、数式などを使わずに説明した著書です。教育経済学の知見に基づき、教育にまつわる問いを考える枠組みを紹介しています。
多くの人から見ると「教育」と「経済学」はすぐには結び付かないようです。しかし、経済学では、教育は将来の自分、社会への人的資本の投資と考えます。個人への投資の場合、お金と時間をかけて勉強し知識を身に付けることによって、将来高い給料の仕事に就くことができ、会社でも生産性を発揮できます。また、国家レベルで言うと、限られた予算を社会保障、防衛、教育など何を重視して、支出するかに関わります。その際、投資という側面から見た時に、何にお金をかけ、将来どれくらいのリターン(見返り)があるのか、投資効率がいいのか、効率を高めるためによりよい方法がないのか、を考えるわけです。
経済学は社会をよりよくするために限りある資源をどういうふうに使えば効果的なのかを考える学問です。そのために、人はどのような動機で行動するのか、それが複数の人になるとどのような結果となるか、行動や結果は実際にデータにどう表れるかといった相互関係を分析します。経済学の手法を教育に応用し、実際の現象を明らかにしようとするのが教育経済学です。
著書で最も興味を持って進めた研究、最もアピールしたかった点は。
佐野教授:
博士課程から研究を進めている「学校の先生」に関する項目に力を入れました。また、経済学部の授業で「日本経済論」を教えている関係で、日本経済全体が今どうなっており、今後どうなるかという点も踏まえて、データやエビデンスに基づき論点を紹介しました。
エビデンスを得るうえで、インフラとしての「統計データ」は大切です。日本は各々の統計はしっかり整備されていても、個別データをつなごうとすると結構難しいのです。その上、統計データを取ることも難しくなってきています。私たちの研究が社会のために役立っていることが多くの方に少しでも理解されれば、統計データを取る際の抵抗感もなくなり、詳しいアンケートの回答にも協力してもらえるのではないかと思います。そうなるよう願って、多くの方々にわかりやすく伝わるように本書を書いたつもりです。
日経・経済図書文化賞をいただいたのは、著書が経済理論やエビデンスをバランスよく盛り込んだ啓発的な書物として評価されたのだと思います。今、私がやっている研究が、社会にどのように貢献しているのかを、できるだけ発信し続けなければならないと感じました。
選択肢が増えることは効果的なのか
今、進めている研究がどんな内容か教えてください。
佐野教授:
「学校間競争と子どもの人的資本形成:教育施策の自治体間差異を利用した分析」をテーマにした研究を、本学の教員らと共同で進めています。公的な学校教育の質の向上を目的とするような学校間競争を促進するために有効な方法は何で、必要な前提条件は何かを、国の政策や自治体の施策を手掛かりに分析しています。
学校間競争とは、経済学を専門としない方々には、抵抗感のある表現だと思います。別の表現をすると、選択肢を増やす方法は教育の質を高めるのか、どんな方法の選択肢を増やした方がうまくいくのか、どんな条件であればうまくいくのか、あるいは、うまくいかないことがあるのかを経済学の手法で分析するのが、今回のプロジェクトのポイントです。
プロジェクトで進めている研究の一つに、「高校の通学区域(学区)」に関する研究があります。現在の日本においては、学区の範囲を広げたり、学区そのものを解消して全県1区にしたりしています。通学区域を変更することは通える学校の選択肢を増やす方法といえます。通える学校という選択肢が増えることは、生徒が勉強を頑張ることで、学校全体の学力が上がるかをデータから確かめる研究をしています。
一方で、学区が広がることは、学校側も魅力をアピールし選ばれる努力が求められます。進学校か、スポーツが強い学校か、など学校側には選ばれるように努力をする圧力が働きます。学校側の努力が実を結んでいるのかどうかもデータで確かめようとしています。ただ、結果として学校間に格差が生じる可能性もありえます。その点も踏まえ、全体的にいいことなのかどうかを検証しようとしています。
選択肢を増やす方法は他にもあり、高校授業料の無償化もその一つです。授業料の無償化は、授業料支払い負担に関わらず、通学する学校を選択することができます。一方で、授業料支払い負担が減ることは、もともと金銭的に余力のある家庭の塾通いを増やすかもしれません。その結果、家庭間での格差が広がることがありえます。選択肢を広げることがいいことかもしれないし、条件によっては問題が起こるかもしれないのです。私たちのプロジェクトは、日本国内で教育に関する選択肢を増やすことで何が起こるのかのエビデンスを示そうとしています。
研究が進めば、新しい疑問が
その選択肢による違いを、具体的にどのように調べるのですか。
佐野教授:
高校の通学区域(学区)の研究を例に説明します。2000年代の法律改正に伴い「通学区域を定める」という1文が削除されて、都道府県が通学区域を柔軟に設定することが可能になりました。この縛りがなくなったことで、直後に東京都や和歌山県のように全県1区としたところと、通学区域を残した県がありました。その後も、各都道府県が五月雨式に学区再編を実施したりするような状況が発生しました。学区再編を実施した県と実施しなかった県を比較する統計手法を応用し、「学区の制約がなくなると、生徒や学校側が努力し、進学実績を向上させたか」を学校別のデータを用いて検証しています。
この研究は、今後どのように展開しますか。
佐野教授:
今の研究は2027年度末までのプロジェクトです。研究を進めれば進めるほど、新しい疑問が生じます。新しい発見もあり、発見から派生する疑問もあります。展開の仕方は多方面にあると考えています。今は義務教育や中等教育にターゲットを絞っていますが、高等教育や大学・大学院などに焦点を当てることもできます。また、学校の先生のパフォーマンスを発揮できるやり方を考えたり、学校に関連する政策を変えた時に家庭がどう反応したかを確認したりするのも方向性の一つです。研究を一つ一つ進めれば進めるほど、相互に関連することが出てきて、その範囲はどんどん広がります。
もう一つ進めているのが、学校の先生の長時間労働の経済分析です。どんな研究ですか。
佐野教授:
多くの職業と同様に、先生の長時間労働は社会的な問題となっています。長時間労働はストレスなど本人の健康を害すだけではなく、家族と過ごす時間がなくなることなど、周囲にも悪影響を及ぼしえます。このような状況は是正した方がいいと考えます。しかし、この労働時間を第三者が把握し、分析のために用いることは簡単な話ではありません。
それを「オルタナティブ・データ」、とりわけ携帯電話の位置情報、人流データから把握しようとしています。携帯電話の位置情報のデータで、学校の先生の労働時間をどこまで把握でき、限界があるかを調べています。その上で、長時間労働を是正する手段を考えることができないかという研究です。
研究のキーワードは「格差」
もともと教育経済学、労働経済学を専門に研究を進めています。
佐野教授:
私の研究のキーワードは「格差」です。所得の差、男女間の差、学歴の差など格差がなぜ発生し、どうなっているのかが根幹にある問題意識です。格差が発生するルートとして、教育がどこまで関連するのか、もし格差を是正する方法があるとすれば、教育がどのくらいの影響力を持っているのか、格差を是正するために人的資本政策(人への投資)がどこまで有効かという分析を研究の中心に据えています。

また、格差の是正を考える場合、労働経済学の議論も必要となります。日本のここ数十年の労働市場における変化にも興味を持っています。いわゆる正規・非正規の問題、労働時間の問題、働き方改革などの研究を少しずつ進めました。
私は、年齢的に就職氷河期世代です。同じ世代には、大学を卒業しても、正社員として採用してもらえない人もいました。これはその後に何らかの方法でリカバリーできないのかと思うわけです。しかも、そのまま放置すれば、氷河期世代が年金をもらう年齢になった時にさらに大きな問題が起こります。労働問題や教育問題に興味を持ち、格差を意識したのは、世代が影響したのかもしれません。
ウェルビーイングは、経済学の重要な指標
いま、ウェルビーイングというワードをよく耳にします。専門分野とウェルビーイングは関係していますか。
佐野教授:
ウェルビーイングは、経済学においても、重要な指標の一つです。経済学は、今よりもより良い社会を築くために、限りある資源をうまく活用し、効率的に分配することを目指し、その仕組みを考える学問です。別の言い方をすれば、どうやれば皆が幸せになれるかなのです。人が何か選択する場合に、幸福感とか満足感と結び付きます。経済学ではウェルビーイングをどう考えるのかが、一つの分野として確立されています。その中でも、教育の役割、労働市場との関連は、重要なトピックです。
かつて、「労働と幸福度」というテーマで研究したことがあります。働くこと自体が幸せなのかを確かめました。経済学において、働くことは基本的にうれしくない行為で、休んでいる方が楽しいと考えます。ただ休むとお金を稼げず、消費活動ができなくなります。働くことは幸福ではないけれど、稼ぐことができれば、給料を使って幸せになると考えるわけです。休むことと稼ぐことは、裏表の関係です。これは、経済学における「トレードオフ」の考え方です。
働いていないけれど、所得がたくさんある状態だったら、幸せであるということも考えられます。しかし、そういう状態でもしんどいと感じるのであれば、それは、お金の有無の問題ではなく、働くことは何らか幸福に結びつくものがあるということになります。アンケート調査のデータを使って、所得が同じ条件で、仕事の有無で満足感に違いが出るかを分析しました。その結果、「失業状態は、仮にお金があったとしても幸せではない」ことを示しています。
社会現象の検証は、研究者の役割
教員の働く時間、時間外賃金に関する法改正が国会で議論されました。
佐野教授:
今回の法改正によって、教育現場の行動が変わると思います。それがいい方向に動いていくのか、それともまだまだ不十分であるのか、将来にも問題が残るのかを検証するのが、私たち研究者の一つの役割です。何が起こっているのかを学術的に明らかにすることは重要なことです。
各々の研究はその当初は注目されなくても、何年後かになって社会でクローズアップされる場合もあります。ですから、研究者は地道に研究し、社会現象の実態を明らかにするエビデンスを積み上げていくべきと考えます。
佐野晋平教授 略歴
2001年3月、東京都立大学経済学部卒。2006年9月、大阪大学大学院経済学研究科博士課程修了。博士(経済学)。日本学術振興会PD(特別研究員)、神戸大学経済学研究科講師、准教授、特命准教授、千葉大学法政経学部准教授を経て、2020年4月、神戸大学大学院経済学研究科准教授、2024年4月、大学院経済学研究科教授。