
スーパーコンピューター(スパコン)を活用したシミュレーション技術で、さまざまな流体の現象を明らかにし、社会課題の解決に生かす研究が神戸大学で展開されている。研究を率いるのは、システム情報学研究科の坪倉誠教授。世界トップレベルのスパコン「富岳」を設置する理化学研究所(理研)計算科学研究センター(神戸市中央区)のチームプリンシパルも務める。新型コロナウイルスの感染リスクに関する研究などが注目され、現在も多様な分野の課題に取り組む坪倉教授に、研究の現状やシミュレーションの可能性について聞いた。
自動車走行時の空気の流れ、産学連携で「見える化」
シミュレーションの研究に関心を持ったきっかけを教えてください。
坪倉教授
大学時代、目に見えない薄さの金属の薄膜(はくまく)を作る研究をしていました。試行錯誤で実験を繰り返す日々でしたが、なかなかうまくいかず、「見えないものを見えるようにできないだろうか」と考えていました。それがシミュレーションに関心を持ったきっかけです。
大学院に進学した当初、自分が取り組む分野に詳しい先輩がおらず苦労していました。そんな時、別の研究室で行っていた流体のシミュレーションに興味を持ちました。空気や水などの複雑な流れ「乱流」を扱う研究でした。一見すると不規則で秩序のない流れの中に、どのような秩序の構造があるかを探るのが面白いと感じました。
今から30年以上前ですが、「ベクトル型計算機」と呼ばれるスパコンはすでにありました。ただ、そのスパコンを使っても、乱流の構造をモデル化するのは難しい時代でした。
その後、自動車走行時の車体周辺の空気の流れについて、研究を始められましたね。
坪倉教授
2000年代初め、大気や海洋などの環境の変化を解明する目的で、日本政府が開発を後押しした「地球シミュレータ」というスパコンが登場しました。大学院時代に指導を受けた恩師から、そのスパコンを利用して、自動車の走行にかかわる空気の流れを研究してみないか、と声をかけられたのです。政府としてもスパコンの活用を環境分野に限定せず、産業界に広げようとしていました。特に自動車は、日本の基幹産業ですからね。
自動車は、走行時の空気抵抗をいかに減らすかが重要です。しかし当時、車体周囲の空気の流れについては、まだよく分かっていませんでした。実際の車体で計測を繰り返しながら、試行錯誤で設計に反映していくしかありませんでした。
地球シミュレータで空気の流れを解析し、その成果を自動車メーカーに伝えると、大変喜ばれました。メーカーでももちろん研究はしていましたが、地球シミュレータを使うような解像度の高いシミュレーションは一歩先の取り組みでした。自分の研究を求めている人々がいることを実感できて、やりがいを感じました。
具体的にはどのような取り組みを?
坪倉教授
国内の自動車メーカーや研究者で自動車の空気力学を考えるコンソーシアムを組み、研究を進めました。2012年には、理研のスパコン「京(けい)」の運用が始まったことで、さらに解像度の高いシミュレーションが可能になりました。自動車メーカーが経験則で蓄積していた技術の科学的根拠を明らかにし、「見える化」したことによって、設計などの応用が広がるきっかけになっていきました。
欧州車は高速走行でも安定していて乗り心地が良い、とよく言われますが、これも、車体周囲の空気の動きを解析することで理由が分かってきました。欧州の自動車メーカーでその内容を説明した際、「理由が明らかになったのは素晴らしい」と称賛され、大変うれしかったのを覚えています。
自動車に関する研究は、今も継続して取り組んでいます。自動車産業は国際的な競争が激しく、私の専門である数値流体力学の研究が最も進んでいる分野の一つで、メーカーのコンソーシアムでの活動は現在も続いています。

新型コロナ対策に貢献した飛沫拡散シミュレーション
新型コロナウイルスの飛沫に関する研究は、大きな社会的インパクトがありました。
坪倉教授
コロナ禍が深刻になり始めた2020年春、スパコン「京」の後継である「富岳」の試行運用が始まりました。文部科学省と理研が、新型コロナウイルスに関する研究に「富岳」を無料供与すると発表したのです。
神戸大学や理研の研究者で組織する私たちのグループで、何ができるかを話し合いました。そこで、あるメンバーが「感染リスクになっている飛沫のシミュレーションをしてはどうか」と提案したのです。自動車のエンジンは、燃料を霧状に噴射し、それが燃える力を利用しています。この噴射による空気の動きは、室内の飛沫拡散シミュレーションに応用できるかもしれないと考えたわけです。
感染症研究者のほか、建設会社、空調メーカーなど産業界の知り合いにも声をかけ、チームを構成しました。シミュレーションはインターネットの環境さえあれば、在宅でもできるので、感染症が拡大している時などは非常に有効な研究手法になります。
最初に発表したのは、マスク着用に関するシミュレーションでした。当時、マスクの着用が推奨されていましたが、その効果は科学的に示されていませんでした。シミュレーションでは、布マスクでも着用すれば一定の効果があることや、着用の仕方次第で効果が変わることを明らかにしました。
次に発表したのが、咳やくしゃみによる飛沫の拡散を示すシミュレーションでした。小さな飛沫がエアロゾル(空気中に浮遊する微小な粒子)になって長時間、広く拡散することや、湿度が低いほど飛沫の蒸発量が増えてエアロゾル化しやすくなることを明らかにしました。飛沫拡散の様子について、多くのケースをシミュレーションして「見える化」し、換気の有効性を示すこともできました。
当時、根拠のない予防法を信じている人もいたので、このような科学的データを示すことは非常に重要だと感じました。同時に、シミュレーションが社会に対して大きな力となることを実感しました。
社会への情報発信で、教訓になったことはありますか。
坪倉教授
新型コロナウイルスに関する研究は、科学に関するコミュニケーションについて考えさせられる経験となりました。
例えば、マスク着用に関するデータを公表すると、メディアから「結局、布マスクはいいのか、悪いのか」といった質問を受けます。しかし、私たちの役割はあくまでも客観的データを示すことです。「だから安全」「だから危険」といったメッセージは、私たちが発信すべきではないと考えました。それは、データを受け取る人々の判断であり、具体的な対策は政府機関などが担うものです。私たちの研究成果は、皆に考えてもらうためのきっかけや判断材料ということですね。
新型コロナウイルスに関する研究はその後、どのように進展していますか。

坪倉教授
現在取り組んでいるのは、体内に入ったウイルスがどこで増殖し、どう広がっていくかをシミュレーションする研究です。当初から連携している感染症の研究者と一緒に進めています。
また、将来のパンデミックに備え、政府の対策の判断材料としてもらうため、「エージェントシミュレーション」という手法を使った研究にも取り組んでいます。人々の年齢、性別、社会生活上の動きといったさまざまな要素を取り入れ、感染リスクや新規陽性者数の変化などをシミュレーションするものです。個人の属性からコミュニティー全体の人の流れまで、総合的に考えたうえで、社会へのインパクトを明らかにしようとしています。
コロナ禍でもこれに近い研究をしていましたが、現在は文部科学省の「『富岳』成果創出加速プログラム」の一環として、詳細なシミュレーションを進めています。
AI、データ科学との融合で飛躍的に進む研究
スキージャンプの飛び方に関する研究も、ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピックの際にメディアで注目されました。
坪倉教授
北海道大学に在籍していた2007年ごろから始めた研究です。モーションキャプチャー(人の動きをデジタルデータとして記録する技術)を利用してジャンパーの動きを捉え、空力特性などを分析するのですが、近年はデータ科学の進歩で研究が飛躍的に進んでいます。
スキージャンプの場合、さまざまな選手のジャンプのデータを蓄積し、飛行スタイルを分類します。そのカテゴリー分けに基づき、他の選手の指導をする際にも、その人のスタイルを見極めて指導することができます。
コーチは、自身の経験で選手を指導しがちですが、選手とコーチが違うスタイルの場合、うまくいかないこともあります。水泳もそうですね。スポーツに関しては、それぞれの選手に応じた練習方法などを科学的根拠に基づいて見つけていくことが重要で、それが面白いと感じます。
AIの進化によるデータ科学の発展は、車などのものづくりにも大きな影響を与えています。普遍的な現象を見つけることが容易になり、それをさらにAIで学習していくと、複雑なシミュレーションをしなくてもさまざまな予測が可能になります。
ソフトウエアのユーザー、開発者のコミュニティーを広げていく
今後の研究の展望は?
坪倉教授
私たちのグループが取り組んでいるのは基本的にソフトウエアの開発で、自動車やウイルスといったそれぞれのテーマは、このソフトの適用先です。さまざまな分野からの相談を受けて、ソフトの性能を改良していくという研究スタイルです。つまり、社会のニーズに応じ、ソフトを進化させていくボトムアップ型の研究です。
一方、ハードウエアであるスパコン「富岳」も現在、AIとシミュレーションを融合させやすい「富岳NEXT」の開発が進んでいます。2030年ごろに稼働予定で、私たちのグループはその次世代スパコンで性能を発揮できるソフトを目指しています。
シミュレーション技術は今後、AIとの融合でさらに進化し続けるでしょう。考えてみれば、一般の人々がAIを活用するようになったのもここ数年の出来事で、情報の世界のパラダイムシフトは大変な勢いで進んでいます。スパコンとは異なりますが、量子コンピューターも特定の計算に関して非常に有用性が高いとされ、急速に研究が進んでいます。
社会課題としては、エネルギー、環境問題に関心を持っています。例えば、夏の暑さに対し、街の中でどういう対策ができるのか、人々の快適性を上げるためにどのような方法があるのか、といったことです。暑熱対策は、「スマートシティー」の実現に向けたテーマの一つといえます。
医療の分野も重要と考えており、最近は口腔外科の専門家と連携しています。口の中の手術をすると、発話困難になる場合があるのですが、その問題を防ぐために、切開部分を手術前にシミュレーションしておくといった研究です。こうした手法を取り入れ、手術をより良いものにすることを「スマート・サージャリー(手術)」と呼んでいます。
これら2つの「スマート」と、「スマート・インフェクションコントロール(感染症対策)」を合わせ、「3つのスマート」を重視していきたいと考えています。
今、あらゆる研究は一つのグループで取り組むのが難しい時代です。自分たちのグループだけでソフトを使うのではなく、多くの人に利用してもらい、「ユーザーコミュニティー」を広げていくことが大切です。ソフトをオープンにすることで開発者が増え、「開発者コミュニティー」も広がっていきます。今後、この2つのコミュニティーの拡大も重視しながら研究を進めていきたいと思います。
坪倉誠教授 略歴
1992年、京都大学工学部卒。1994年、東京大学大学院工学系研究科修士課程修了。1997年、同研究科博士課程修了。博士(工学)。東京工業大学大学院総合理工学研究科講師、電気通信大学電気通信学部助教授などを経て、2007年、北海道大学大学院工学研究院准教授。2012年から、理化学研究所計算科学研究機構チームリーダー(現・計算科学研究センターチームプリンシパル)を兼務。2015年、神戸大学大学院システム情報学研究科教授。




