長志珠絵 教授

ウクライナ戦争が長期化する中、戦後78年を迎えた日本。世界で惨劇が繰り返される一方、太平洋戦争を経験した世代は少なくなり、記憶と記録の継承は年々重みを増す。神戸の街は大空襲で焼き尽くされ、神戸大学の前身の各学校も大きな被害を受けた。戦中、戦後の混乱期、神戸では何が起きていたのか。近現代史が専門で、特に日本の占領期に詳しい国際文化学研究科の長志珠絵(おさ・しずえ)教授に、近年明らかになってきた地域の歴史、継承の意義などを聞いた。

市民が広めた空襲の記録運動

まず、神戸大空襲についてお聞きしたいと思います。1945年3月、5月、6月の大規模な空襲で神戸は焦土と化し、死者は7500人以上ともいわれます。その記録の継承を進めていますね。

長教授:

神戸には、1971年に発足した「神戸空襲を記録する会」という市民団体があります。空襲の経験者や遺族、新聞記者といった人々が体験記の収集などを行ってきました。神戸大学の前任大学も神戸だったので、地域の戦争経験をまとまった形で知りたいと思いましたが、当時、空襲記録運動は全国的に大学や研究機関との接点がなく、状況がよく分かりませんでした。そこで自ら連絡を取り、戦後60年(2005年)のころから本格的に関わり始めました。

空襲の記録運動は1970年代、全国で盛んになりました。戦災による民間人の被害は、軍人・軍属と違って戦後補償の枠から外され、行政による悉皆(しっかい)調査もないため、正確な死者の人数は分かりません。これは現在も、です。70年代は終戦から四半世紀がたち、「このままでは忘れられる」という経験者の強い危機感から、記録の収集・展示、手記の出版などの活動が展開されていきました。当時はベトナム反戦・平和運動も広がっていました。

80年代になると、運動は全国的に公的な常設展示の施設を求め、神戸でも81年、市立中央図書館に暫定的に「戦災記念資料室」が開かれました。が、95年の阪神・淡路大震災で中央図書館が被災したため市立兵庫図書館に移され、戦災資料の一部を展示した状態でリニューアルできず、今日にいたっています。新しい成果も取り込めないままとなっています。特に公共図書館では、阪神・淡路大震災の特設コーナーがあるのとやや対照的に、神戸では戦災や空襲について総合的に学んだり調べたりできる場がないままです。

大学生など次世代の人々に、戦災の被害をどう伝えていますか。

長教授:

繰り返された神戸空襲で、神戸工業専門学校(現・神戸大学工学部)や神戸高等商船学校(1945年4月に高等商船学校神戸分校に改組、現・海洋政策科学部)、県立医学専門学校(現・医学部)などが焼失・被災しました。兵庫師範学校(現・国際人間科学部)予科の15歳の男子学生が書いた日記には、寮が焼け、上級生が亡くなり、焼夷弾が降る中を逃げ惑うなど、生々しい状況が記されています。

2013年に建立された神戸空襲の慰霊碑(神戸市中央区)

神戸大学の授業では、地名も含めてこうした例を紹介することで、地元出身の学生は「どうして今まで知らなかったんだろう」と考え、他地域の学生も出身地の戦災被害について考えるきっかけになるかと思います。出身高校が戦前からある学校だと、学徒動員の事実の記録や慰霊碑がある場合もあります。身近な地名の戦災は、過去の負の歴史が「自分ごと」として迫ってくる。最近は、ウクライナ戦争が起きたことで、より身近な問題として考える学生も多くなったように感じます。

「神戸空襲を記録する会」の活動として特筆すべきは2013年、神戸市中央区の大倉山公園に空襲死没者の名前を刻印する「いのちと平和の碑」を建立できたことです。会は以前から死没者の名簿を集めていましたが、神戸新聞紙上で呼びかけて写真を集め公表する活動なども含め、「判明した人の名前だけでも刻みたい」と市に協力を働きかけました。戦後50年の1995年、沖縄戦で亡くなった人々の名を刻む「平和の礎」(沖縄県糸満市)ができたことも大きく影響しています。空襲被害を追悼碑という形で可視化する空間ができたことは、大きな意味があると思います。隔年で刻銘の追加もされています。

年表のように区切れない「占領期」の時空間

日本の占領期を特に研究されています。神戸はどのような状況だったのでしょうか。

長教授:

神戸では1945年8月の敗戦後、多くの洋館住宅やビル、港湾施設などが占領軍に接収されました。海岸通りや県庁等は占領軍の拠点になり、現在のJR三ノ宮駅や神戸駅周辺には実戦部隊のキャンプが置かれました。神戸大学は六甲台の講堂やプール等が接収され、特に今の六甲台第2キャンパスは占領軍の家族住宅「六甲ハイツ」のために開発されました。これが総合大学としてのキャンパス用敷地になるのですが、返還は1958年。日本の独立は1952年の講和条約の発効から、とされますが、地域の実情としては、日米安保条約によって占領軍が米軍に変わり、そのまま居座っていた。「戦後」「占領期」といった区分は、年表の記載のようにきれいに時空間が切れるものではありません。

現在の大丸神戸店付近を行進する占領軍 (1945年)

(神戸新聞社提供)

六甲ハイツと呼ばれた占領軍の住宅 (1958年ごろ)

現在の神戸大学文・理・農学部のキャンパスにあたる(神戸新聞社提供)

占領期の統一的なイメージを混乱させる要因の一つとして、1950年に始まった朝鮮戦争が深くかかわっています。神戸港は、仁川(インチョン)上陸作戦で米軍出兵の拠点となり、日本の船員らも憲法9条がありながら徴用された船ごと戦場へ向かい、亡くなった人もいます。こうした事実は近年、遺族の証言やアメリカの資料で明らかになってきています。

占領期については、連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の記録文書が1980年代後半から公開され始め、日米関係を中心とする研究が進みました。しかし、地方占領について、特に人々の生活史を含めた研究は2000年代になってから本格化します。

各都道府県には「地方軍政部」という米軍の組織が置かれ、文官出身の軍政官が日本の県庁職員と密接にかかわりながら占領政策遂行の監督役をしていました。神戸は兵庫軍政部のほか、「神戸ベース」という米軍の組織が置かれていたことが特異です。これまでの研究で、米軍の西日本のロジスティックス(兵たん)を担っていたことが分かってきました。

占領期の市民の暮らしについては、記録があまり残っていないと聞きます。

占領期の学舎接収に関する対応などを記した神戸大学の「接収対策委員会記録」

(大学文書史料室所蔵)

長教授:

公文書については兵庫の県庁文書の整理と公開が遅れています。口述記録や記憶は、意識的には集められてきませんでした。戦時下の記録・記憶との大きな違いで、8月15日で切られてしまっている。ただ、戦災の日々と占領期はつながっていて、人々の日記もそうですが、当時の疎開児童の手紙などは8月15日では終わりません。疎開先から地元に戻るのは、全国的にも10月、11月ですから、初期占領期の雰囲気は伝わります。

神戸大学でも、プールが接収されて水泳部員が不満を持っているとか、講堂で卒業式をするのに神戸ベースの許可を受けなければならないとか、そういう状況が資料に残っています。そうした市民側の不満などは、行政の公的資料には残りませんが、断片を集めることが必要です。

公的記録の残り方としてみると、神戸は在日コリアンの集住エリアでもあり、華僑を含めて定住外国人も多く、占領軍に警戒されていた地域の一つでした。つまり占領軍と日本の行政からみれば、「マイナスの意味での多文化社会」だったことになります。

警戒されていたので、人数や事件に関する、バイアスのかかった記録はあります。が、市民側の目線の記録や生活史は意識的に集める必要があります。ただ戦後日本の市民の記録の集め方は、ナショナリスティックな側面もあり、日本人の経験は豊富にあっても、在日コリアンや華僑の経験・記録とつきあわせてきませんでした。占領期も含め、これからの課題ですね。神戸はやはり戦前から文化的多様性を持つエリアですから。

多様な視点で歴史を描き直す

 

見えない歴史を見る必要があるのですね。

長教授:

神戸では占領期、GHQや日本政府が朝鮮人学校の閉鎖を命令したことに対する反対運動「阪神教育闘争」がありました。これは生活要求なのですが、占領軍は「非常事態宣言」を出して暴力的に運動を排除しました。占領期は直接統治ではなく、間接統治だったにもかかわらず、軍事的制圧が行われたことの意味は大きい。しかし、こうした出来事が部分史になってしまい、「占領期」という枠ではとらえられてきませんでした。

1950年代、日本の本土は米軍の基地だらけでした。そして、占領期から続く1950年代は戦後の都市空間のあり方と密接につながっています。「戦後初期史」というような形で、歴史の読み直しをしていく必要があると思います。

神戸は、未来の多文化社会を考えるという意味でも、占領期を描き直していくのにふさわしい地域です。

ジェンダー史も専門分野とされていますが、ジェンダーの視点から歴史をどう見るべきでしょうか。

長教授:

考古学の分野では、「狩猟は男性、煮炊きしているのは女性」という展示パネルなどが、1万年前から男性はこう、女性はこう、という性別役割イメージの固定化につながってしまうと批判されてきました。想像図ですからね。近年では、女性が大型動物の狩猟に参加していた痕跡が遺跡遺物のレベルで多数発見され、世界的に見直しが進んでいます。「埋葬されている男女は夫婦」との思い込みが検証の結果、きょうだい関係と分かった例もあります。ジェンダーバイアスに無自覚な研究者の予断は、歴史像のミスリーディングを犯すリスクと紙一重です。

ネット上にはジェンダーバイアスがかかった情報が多く、歴史を見るうえでは特に気をつける必要があります。70年代以降の空襲記録運動にしても、実際に活動を担っていた女性たちが補助、地位のある男性が中心―とされる露骨な記述も見かけます。わたしが取り組んでいる空爆―占領期の研究でも、ジェンダー射程の視点を通して新たな時代像に寄与できるかと考えています。今後、その成果を本にまとめていく予定です。

長志珠絵教授 略歴

1985年3月立命館大学文学部史学科日本史学専攻 卒業
1988年3月岡山大学大学院文学研究科日本史学専攻修士課程 修了
1991年3月立命館大学大学院文学研究科日本史学専攻博士後期課程単位取得退学
1994年4月立命館大学法学部 常勤講師
1997年10月立命館大学より「近代日本と国語ナショナリズム」で論文博士(文学)取得
1998年4月神戸市外国語大学外国語学部総合文化学科 助教授
2010年10月神戸大学大学院国際文化学研究科 教授

研究者

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