松尾美和 准教授

貧困や格差の拡大、少子化と人口減少などの困難な課題に、日本を含む多くの国が直面している。社会科学の重要な役割は、政策形成の基礎となる知見を見出して科学的な議論を支えることにある。子育てやケア労働の問題、交通弱者、コロナ禍でのテレワークやIT技術の影響など、多様な視点から分析に挑戦している経済経営研究所の松尾美和准教授に、研究の原点と今後力を入れるテーマを聞いた。

工学部から経済研究へ

工学部建築学科から経済学の研究者に転じられました。

松尾准教授:

理数系であったことと人が暮らす空間に興味を持っていたことから、工学部建築学科に進学しました。大学で学ぶうちに、都市などより広い空間に関心を持つようになり、研究室で人口減少都市を支えるデザインを考えたり、まちづくりのグループに参加したりしましたが、「もう少し、枠組み・理論を考えてみたい」と、米ハーバードデザインスクールに留学しました。建築、都市計画、アーバンデザイン、ランドスケープなどの研究分野を持つ大学院でしたが、様々な研究室を訪ねてみて、授業・研究内容に感動したミクロ経済学の先生に弟子入りし、交通経済学を専攻したのです。労働者の雇用へのアクセスなど、都市の発展に必要な交通網などについての研究に取り組みました。

社会的弱者に目を向けた研究に力を入れておられます。

松尾准教授:

博士課程修了後に就職したのが米国中西部のアイオワ大学でした。穀倉地帯で食肉加工工場などが多く、人口減と高齢化、貧困に悩む、まさに「衰退していく田舎」でした。メキシコなどからの季節労働者、移民との融和も課題になっていました。大学院時代を過ごした東部のボストンは外国人も多い都会でしたが、アイオワは白人中心の社会で、私自身がマイノリティーであり、地域に溶け込めない居場所のなさを経験しました。そこで、現地で孤立しているヒスパニック系の人々がどのように暮らしているのかに興味を持って研究したのが出発点です。

貧困ひとり親に必要な自動車保有

特に交通弱者に注目する研究に力を入れておられますね。

松尾准教授:

キャリアの初期には、交通弱者や社会的弱者に関する研究はいかにも女性研究者が取り上げがちなトピックという印象から抵抗感がありました。しかし、せっかく自分自身がマイノリティーとしての経験があるのだから、それを研究に活かすことも使命だと考えて本格的に研究するようになり、10年ほどになります。現在でも交通関連の研究の中では、貧困ひとり親や移民の交通行動に関する研究は主流とは言い難いです。しかし、例えば自動車は、ケア労働を抱える貧困世帯にとって就業機会を増やして貧困脱出を促進するツールとしての側面があります。地球環境問題の視点から自動車利用の削減が必要であることは事実ですが、多面的な影響を研究者として明らかにし、為政者に注意喚起をしていかなければなりません。健康でケア労働負担のない人ばかりを想定していては、困難の中にある人が自動車を持たないと具体的にどのような影響があるのかに思いが至らず、政策を間違う可能性があるからです。

生活保護受給者に自動車保有を認めるかどうかは、日本では長年問題になってきました。自動車が資産であるとみなされてきたことが原因ですが、それでは車がどうしても必要だから生活保護を受給しなかった場合、逆に生活保護を受けるために車保有を諦めた場合、どのような問題があるのでしょうか。私自身も米国のデータを用いて研究していますが、米国では25年以上前に自動車保有制限を緩和した結果、貧困ひとり親の就職率・就業継続率・生活保護脱出率が上がったことが知られています。受給条件を緩和することで貧困を脱しやすくなるのだとすれば、長期的には受給条件を緩和した方が社会的費用は下がるはずです。一方、車を持つために生活保護受給を諦めると、貧困ひとり親はダブルワーク、トリプルワークで一日中働くことになりかねません。この場合、頼れる親戚などがいなければ子供は放っておかれるので、学校以外でのしつけや教育機会、人付き合いの機会が失われ、貧困の再生産につながることが懸念されます。短期的な支給コストばかりに着目するのではなく、長期的に個人・社会へ及ぼす影響を考えて政策決定していく必要があります。

貧困の再生産を防ぐために

 

貧困ひとり親だけの問題ではないようですね。

松尾准教授:

米国のヒスパニック系移民など民族によっては「車は男性のもの」という文化が根強くあり、家庭に車があっても女性の利用優先順位は低く、家に閉じこもってしまうケースが見られます。自動車依存社会では、自分で運転できない人は就職も不利ですし、行政サービスにアクセスしたり、英語を学びに行ったりすることも難しくなります。男性(夫)が車で仕事に行ってしまうので、買い物にスーパーマーケットへ行くにも、車を使える人に頼って、何家族もが相乗りするしかありません。就職するためには、職場まで相乗りさせてくれる人を見つける必要があります。移動能力を身に着けることはエンパワーメントである、ということはフェミニズムの議論の中で数十年前から話題にされていましたが、女性にかぎらず、外国人や障碍者にとっても同様のことが言えるのでしょう。

次世代を担う子供への影響も大きい。

松尾准教授:

米国では車が無ければ、子供を公園に遊びに連れて行くこともままなりません。私は家族でロサンゼルスに住んだ時、敢えて4人家族に自動車1台で暮らしてみて、子供の課外活動などの機会がかなり抑制されることを実感しました。移動制約は、空間だけでなく時間の制約にもつながります。ダブルワーク、トリプルワークの貧困ひとり親などは「時間の貧困」にも苦しんでいる場合が多く、リタイヤした高齢者などの時間が十分にある人と異なる支援策が必要です。親の直面する時間・空間制約は、子供の活動や親子の時間への制約でもあります。金銭だけでなく時間の余裕がない時に、子供と触れ合う時間や教育へのかかわりがどうなるのか、現在米国のデータを基に調べています。交通手段の有無が、子育て世帯や社会全体に、どういう長期的な影響を与えるのかが研究テーマです。

在宅勤務でも女性にしわ寄せ

IT(情報技術)の普及やコロナ禍で広まった在宅勤務の影響はいかがですか。

松尾准教授:

ITの普及や在宅勤務の普及でワークライフバランスの向上が期待されましたが、米国の研究論文を読むと、意外に女性労働者は楽になっていないことがわかります。収入がある程度あってネット環境が整っていたら、移動時間が減った分自由時間が増えて生産性も上がるはずです。しかし、高齢者や子供のケアを行っている人については、「家にいるのだから、働きながらケア労働もできるでしょう」という社会的プレッシャーや自身の思い込みによって、事実上のダブルワークとなり過重負担となりがちなのです。

私も在宅勤務をすることが増えましたが、同じ研究者である夫も自宅で仕事しているのに、子供は私の方にかまってもらおうとします。子供もお年寄りも、母親や娘・嫁が目の前にいれば何かと関わりを求めたくなるでしょうし、物事を頼んでしまいがちです。このような状況では、近くにいるだけに断ることも難しく、結局日中は仕事に集中することが出来ずに睡眠時間を削ることになります。在宅勤務の普及は全ての労働者にとって吉報かと思われましたが、母親や介護をする女性にケアや家事のしわ寄せが行っていることが、第二次緊急事態宣言中の2021年2月にオンラインアンケートで行った調査で明らかになりました。欧米でも同様のことが起こっていることが、報道されています。

今後の研究計画を教えてください。

松尾准教授:

交通と通勤行動や企業立地の関係について取り組む研究者は多いですが、私はより人の私的な生活との関わりに関心があります。具体的には、交通手段へのアクセスによって、家庭における時間の使い方がどうなるかを研究していきたいと考えています。仕事だけでなく子供の教育、家族とのコミュニケーションなど、人の生活がどう変わっていくかを考えていきたいと思います。

経済学では「予算制約」による人々の行動の変化を研究することが多いですが、時間も大きな制約条件です。私は、時間制約に直面する子育て世代の女性の交通研究者として、交通が人々の行動に与える影響の研究に取り組んでいくつもりです。

略歴

2002年3月東京大学工学部建築学科卒業
2004年3月東京大学大学院新領域創成科学研究科環境学専攻修士修了
2005年6月ハーバードデザインスクール修士課程修了
2008年11月同スクール博士課程修了(デザイン博士)
同スクールポストドクトラルフェロー
2009年8月アイオワ大学准教授
2014年8月早稲田大学高等研究所准教授
2016年2月神戸大学経済経営研究所准教授

研究者

SDGs

  • SDGs1
  • SDGs5
  • SDGs10