医学研究科外科系講座の災害・救急医学分野教授で、医学部附属病院救命救急センター長の小谷穣治教授は、医療者として1995年1月の阪神・淡路大震災と、2005年4月のJR福知山線事故を経験している。当時の状況や、そこから得た教訓について話を聞いた。
阪神・淡路大震災の時の状況を教えてください。
小谷教授:
阪神・淡路大震災の時は大学院生でした。関西に大きな地震が来る認識が全くなく、前日深夜に放映されたNHK番組での「北朝鮮のミサイルが日本を射程圏にとらえた」という情報が残像として残っていたために、揺れた直後はミサイルが命中したと思い込んだほどでした。住んでいた新神戸のマンションはつぶれて停電状態だったため、外に出て車のラジオをつけた時に初めてそれが地震だったことを知りました。ニュースでは、神戸市内で5人の死者が確認されたと報じていましたが、街の損壊状況を見るとそれどころではないことは明らかでした。
その後、車で神戸大学医学部附属病院に到着すると、患者がどんどん運び込まれてくる状況でした。1階外来の広いスペースをいわゆるトリアージの“緑スポット”として元気な人を送り込み待機してもらう一方、緊急性の高い人の治療に当たりました。
家の下敷きになったあるおばあちゃんは、朝のうちは元気だったので緑スポットにいてもらったのですが、夕方看護師が見に行くと亡くなっていました。緑スポットを回診したところ、この方を含めて2名が死亡しており、13名に頻呼吸、頻脈、低血圧の症状がみられました。動物実験の虚血再灌流(きょけつさいかんりゅう)モデルに似ていると議論になり、挫滅症候群だと気付きました。長時間挟まれた筋肉が圧迫から解放されると、壊死した細胞から毒性の高いミオグロビンやカリウムなどが血中に混じって全身へ広がり、最悪の場合死に至るのです。
応急策として透析をしようと透析室に行きましたが、透析担当の医師も発災当初は我々と同じく挫滅症候群の患者が来るという発想がなかったと思われ、鍵を閉めて不在になっていました。仕方なく、動物実験用の透析機1台と、病棟にあった3台をかき集めて4名に透析を行い、残りの9名は効率の悪いポンプなしの動静脈圧較差に依存した透析を行いました。その方たちは大阪の病院に転院できたのですが、後で全員亡くなったと聞きました。
初期情報は誤った内容が多い
極限状況で医療を行う中でどのような気づきが得られましたか。
小谷教授:
あるお母さんと小学生の娘さんは2人とも家の下敷きで亡くなられたのですが、別々に運ばれてきたため離れた場所に遺体を置いていました。2階で寝ていて助かったお父さんがしばらくして病院に来て、2人の死を知りました。号泣される中で「2人の遺体を隣に並べてほしい」とお願いされました。娘さんを運んでお母さんの隣に置くと、とても喜んでおられました。遺された人が受け入れられる状況を作ってあげること、つまり死に方を整えてあげることの大切さを思い知らされました。
今思い返して当時決定的に足りていなかったものは、医療資機材です。外部からの救護班が到着したのは発災から48時間後でした。検査の機械も透析の機械も水も足りていませんでした。その後、東日本大震災までにはDMAT(災害派遣医療チーム)が整備され、自衛隊の飛行機などで現地に入れるようになりました。
その後の災害医療の経験について教えてください。
小谷教授:
兵庫医科大学病院に勤務していた2005年4月25日にJR福知山線列車脱線事故が起こりました。病院に入った第一報では、福知山市内(京都府)で電車と車がぶつかって5名がけがをしたとのことでした。最初に届いた事故図面では、車両は全部で7両のはずなのに6両分しか描かれていませんでした。マンションの中にめり込んでいた先頭車両のことを把握できていなかったのです。経験上、初期情報は間違った内容が多く、それに左右されないことが大事です。
事故が起きたのは午前9時18分でした。兵庫医大病院では9時40分に災害対策本部を設置し、トリアージポストを設定しました。最初は大事故だという情報がなく、傷病者を無制限に受け入れると消防へ連絡しました。9時50分には最初の患者が搬入され、9時55分には医師、看護師4名からなるドクターカーを現場に派遣しました。合計で113名を受け入れましたが、10時台と11時台の2時間に99名の方が運ばれてきました。外来も、予定していた手術も全部止めて、事故に伴う緊急手術10件を行い、止めていた予定手術もその日のうちにやり切りました。日常的な協力体制の構築が功を奏したと思います。
静かで気づきにくい重症者にこそマンパワーを
短時間に多くの傷病者が運ばれる状況にどう対応されたのでしょうか。
小谷教授:
次々に搬送されてくる傷病者は、救命救急センター医師によるトリアージを行い、赤(第1順位)は救命救急センターへ、緑(第3順位)は整形外科外来へ、黄色(第2順位)は救急外来処置室へ運びました。患者があまりにも多く、救急医は通常のトリアージ法を施行できず、直感で判断しました。あとで検証してみるとかなり正しい判断であったことがわかり、後に「ファーストインプレッショントリアージメソッド(FIT method)」という名前を付けて英語論文にしました。程なくイギリスBBCが取材に来て、番組に出ました。英語で発信する重要性を感じました。
複数の傷病者を診る時には、話ができ、感情を出す軽症者に目が行き、そちらにマンパワーをかけてしまいがちですが、静かで気づきにくい重症者こそ早く見つけて手を差し伸べるべきです。
救急治療室では、どれだけの患者が運ばれてくるのか予想がつかない中で、臨機応変に医療者を各患者に割り振り、治療するスペースを作らなければなりませんでした。救急医だけでなく脳外科医や内科医も処置に当たり、最初はおっかなびっくりでしたが、数をこなすうちにだんだん慣れてきて手際が良くなっていきました。
運ばれてきた傷病者の情報については、玄関前に置いたホワイトボードに、名前、年齢、性別、入院部屋などを書き出しました。現在はエクセルで情報を共有するのが一般的ですが、こうしてアナログで書き出して写真を撮って送る方が確実で早いと感じます。メディアや警察、家族への対応もホワイトボードで済みます。
映像で記録を残しておく意義
大規模災害・事故を経験して、どのような教訓を得ましたか。
小谷教授:
事故から3カ月後、ある遺族の女性から手紙が届きました。夫が病院に運ばれた時、たまたま治療が後回しになったために亡くなったのではないかという疑問がぬぐえず、搬入、入院当時の状況を知りたいとのことでした。当時撮影したビデオの映像を女性と娘さんとで確認しました。多くのスタッフがその男性を治療する様子を見た女性と娘さんは「お父さん頑張って」と応援をし始めました。私たちは3カ月前にタイムスリップしてもう一度事故当日の時間を共有した感覚でした。ビデオを見終え、2人は号泣しながら「これは運命だった。お父さんも頑張っていた」と言って受け入れてくださいました。
遺された人は、どのように亡くなったのか、なぜ亡くなったのかを理解して初めて大切な人の死を受け入れられるのだと感じました。撮影班を設け、こうして記録を残しておくことが大切だということを再認識しました。
一方で、当時治療にあたった医療者のうち何人かは、助けられなかった人々のことを悔やみ、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症しました。異常な緊張状態を経験して心身に影響をきたしていたのだと思います。医療スタッフに対するケアの重要性も再認識しました。
他に、今後に生かすべき教訓があれば教えてください。
小谷教授:
ドクターカーを派遣した現場では、先に近所の住民や工場の方たちが救助活動に当たってくださっていました。たくさんのけが人を路上に寝かせてくださっていたのですが、日本人の看病スタイルなのか、顔に濡れタオルをかけておられました。救護する医療スタッフからすると、だれが重症病態なのか把握しにくくなります。
また、喧騒から離そうとしたのか、発災現場から離れたビルの入口にたくさんの負傷者が寝かされていました。むしろ目立つところに置いていただかないと、気づかずに手遅れになるケースがあります。実際に現場から引き揚げる時、少し離れた木陰に寝かされていた方がすでに息を引き取っておられました。初期治療にあたる市民への啓発が必要だということを痛感しました。
小谷穣治教授 略歴
1987年、山口大学医学部卒業後、神戸大学第一外科入局。97年、神戸大学大学院医学系研究科外科学系修了。米・ニュージャージー州立医科歯科大学、ロバート・ウッド・ジョンソン医科大学外科フェロー、兵庫医科大学救急・災害医学講座主任教授・救命救急センター長などを経て、2019年7月から、神戸大学大学院医学研究科外科系講座災害・救急医学分野教授、医学部附属病院救命救急センター長・救命救急科診療科長。