松下正和特命准教授 

「関西には地震は来ない」。阪神・淡路大震災発生前は、多くの人がそう思い込んでいた。だが、歴史を紐解けば、たいていの地域には災害の爪痕が記録として残っている。神戸もそうだ。地域連携推進本部地域連携教育部門長の松下正和特命准教授は、そうした地域に残る石碑や歴史資料をもとに、過去の災害を住民にわかりやすく伝える活動を行っている。地域の記録に学ぶことから始まる災害文化の伝承について、松下特命准教授に聞いた。

阪神・淡路大震災以前、神戸の人々の多くは「神戸に大きな地震は来ない」と思い込んでいました。

松下特命准教授:

神戸大学の学生時代、アルバイトで西求女塚(にしもとめづか)古墳(神戸市灘区)の石室がある墳頂部の発掘作業をしていたところ、カツンという音とともに青いものに当たりました。なんと三角縁神獣鏡でした。1596年の慶長伏見地震によって石室が2メートルほど崩落していたために、鏡が思わぬ場所から発見されました。つまり、神戸もかつて大きな地震を経験していたのです。

発掘成果を受けて1994年12月に実施された現地説明会では、そういったことも含めてお話がありました。そして、その1カ月後の1995年1月17日に阪神・淡路大震災が起こりました。昔の神戸に大きな影響を及ぼした地震被害を知っていながら、自分ごととして捉えられていなかったことを大いに反省しました。

わたしはもともと古代の文献史学が専門で、天皇と貴族との君臣関係の研究をしており、地域史とは無縁でしたが、西求女塚古墳での発掘作業と阪神・淡路大震災が結びついた経験から、地域に残された記録で地域の歴史を知る大切さに気付かされました。

 

家族写真も立派な地域の歴史資料

その後どのような活動を続けていったのでしょうか。

松下特命准教授:

震災から1カ月後に、大規模災害時における歴史資料の保全・救出活動を行う「歴史資料ネットワーク(史料ネット)」の古文書レスキューのボランティア活動に参加しました。言われるままに神戸三宮センター街にあった『月刊センター』の編集室に行き、崩れかけの建物からミニコミ誌を掘り出しました。新しい年代の刊行物の救出に当初は疑問を感じたのですが、よく考えると、平成のミニコミ誌も何十年後には歴史資料となるわけですから、将来の古文書です。当時のわたしは、時代の新旧で資料の価値を簡単に決めていました。

その後、レスキュー活動を続けようと、神戸市内の古いお宅を回りました。そこで気づいたのは、歴史資料のとらえ方について、研究者と一般の人の間にギャップがあるということでした。一般の人は歴史資料というと博物館にある美術品のようなものを思い浮かべがちですが、自治会の記録も古い家族写真も歴史資料といえます。そういった資料が失われてしまうと、地域や家族の歴史を復元する素材がなくなってしまうわけです。

史料ネットの活動は全国に広がっていくのですが、わたしは地震だけでなく水害にも着目しました。2004年に台風23号で兵庫県豊岡市が大きな被害を受けた時には現地に出向き、濡れてどろどろになった資料でも真空凍結乾燥機での乾燥が可能なこと、一枚ずつ開いて洗う技術があることなどを学んで、水濡れ資料をレスキューする活動を広げていきました。地道な作業で、20年前の水損資料をいまだに洗い続けています。

地域の歴史資料を地域住民が守る意義はどこにあるのでしょうか。

松下特命准教授:

活動を続けるうち、災害に遭ってから歴史資料を救い出すより、普段から地域の歴史資料に目を向け、地域で守る活動が必要だと考えるようになりました。2002年、神戸大学文学部に地域連携センターができ、それが契機となって丹波市棚原地区の方から「たくさんの古文書があるので整理をしたい」と声がかかりました。小さなお堂に300~400年前の古文書がしっかり残っており、地区の方と整理して約1000点の目録を1年半かけて作りました。一緒に取り組んだことで、地域の皆さんが地域の歴史をより深く知るきっかけになりました。

さらに、わたしが産土神(うぶすながみ)に関する古文書を読んで、その内容を本にしたところ、地域の皆さんから「自分たちも書いてみたい」という声が上がりました。そして、自分たちで調べ、まとめ、書くという文化運動に育っていきました。主体的に自分たちの地域の歴史を知り、伝えることこそ、こうした活動の意義だと考えています。一連の取り組みを見て、丹波市教育委員会から活動を市内全域に広げたいとのお話があり、2007年に神戸大学大学院人文学研究科と丹波市が連携協定を結ぶことになりました。

活動を繰り返すあいだに、わたしも崩し字を多少は読めるようになり、それぞれの歴史資料の中でもどこが大事な部分なのかを伝えられるようになりました。それまでは「古い史料は村の大切な財産です」と抽象的な言い方しかできなかったのですが、例えば江戸時代の住民台帳である宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)なら、檀家の家族構成や、お嫁さんの出身地、結婚や出産の年齢などの細かいことまでわかるようになり、「ご先祖様の貴重な名簿なので大切にしてください」と残す必要性を具体的に伝えられるようになりました。

 

歴史資料は、コミュニティだけでなく命の維持にもつながる

近年は、災害の記録を掘り起こす活動もされているそうですね。

松下特命准教授:

歴史資料は、コミュニティの維持とともに人の命の維持にも密接に関連するものだと考えており、古い記録の中にある災害の記録を紐解く作業をしています。以前は、岡山県から兵庫県にかけての山崎断層を震源とする平安時代の地震など、古代史の中の災害しか見ていなかったのですが、最近は、江戸時代以降の記録から災害の痕跡を見つけることに力を入れています。

また、コロナ禍前までは、南海トラフ地震への備えとして、三重、和歌山、大阪、徳島、高知、宮崎などの沿岸部の津波記念碑を調べ、碑の内容を現代語に訳して地元の皆さんに伝える活動を行っていました。崩し字で彫られた碑文は一般の人には理解しづらいため、内容が知られていないことも多く、あらためてどのような災害があったのかを知ってもらう機会となっています。

碑として残らずとも、地震被害の記録が地域に残っている場合もあります。和歌山県御坊市のある地区では、古文書に書いてあった内容を現代語になおして石に刻み、地震発生時の避難先となる山の上の神社に新たに碑を作りました。そこには、江戸時代の宝永地震や安政南海地震でも津波が発生したことが書かれていて、防災訓練の時には神社をゴールに避難する訓練をしています。こうした地域ごとの独自の活動は他地域ではあまり知られていないので、地域同士をつなぐ活動もしています。そうすると互いに刺激し合い「うちの地域ではこういうことをしよう」という取り組みにつながっていきます。

 

思い込みを排し、地域の記録をもとに災害に備える

 

松下正和特命准教授(神戸市灘区の神戸大学) 

今後どのような活動を行っていきたいですか。

松下特命准教授:

明石駅の南側にある浜光明寺の境内に、安政南海地震の津波・火災の供養碑が建っています。明石川にかかっている橋についてもその時の津波で架け替えたという記録があります。明石の住民は、淡路島や明石海峡があるから大きな津波が来ることはない、と思っているところがあるのですが、津波は大阪湾沿岸部はもちろん、播磨灘沿岸部にも来ると思います。しかも、昔はなかった沿岸部の埋立地や低湿地を利用した住宅地もできているので、今までにない大きな被害が出るのではないかと心配しています。

皆さんの地域にも、よく探せば災害に関する記録があり、地震や風水害の発生時期、「ここまで水が来た」というような碑文・古文書がたくさん残っているはずです。まずは見つけやすい災害碑などから歴史を掘り起こし、災害があったこと、先人たちが苦難を乗り越えたからこそ今の土地や皆の生活があることを感じてほしいです。地域で過去の記録を掘り起こし、避難訓練の日などにその内容を活用することで、訓練の意義もさらに深まるでしょう。

人の一生と大災害がやってくる周期を比べると、災害周期のほうが圧倒的に長いです。「この地域は自然災害が少ない」というのは、思い込みに過ぎないかもしれません。命とコミュニティを守るために、地域の災害の記録を次の世代に伝え、「災害文化」として伝承していきたいと考えています。多くの人が、地域の災害文化を科学的な根拠をもとにアップデートし、次の災害に備えるようになれば、と思います。

 

松下正和特命准教授 略歴

1994年、神戸大学文学部史学科卒。2004年、神戸大学大学院文化学研究科博士後期課程単位取得。神戸大学文学部助手を経て、2009年、神戸大学大学院人文学研究科特命講師。2017年から神戸大学地域連携推進室(2021年に地域連携推進本部に改称)特命准教授。

研究者

SDGs

  • SDGs4
  • SDGs11
  • SDGs17