世界の一人ひとりを生存の危機から守る

「人間の安全保障 (Human Security)」という言葉がある。他国からの侵略や攻撃を防ぎ、国家の独立を守る国家安全保障 (National Security) に対して、世界に生きる一人ひとりの安全を実現するという考え方だ。たとえば、極度の貧困や飢餓、教育の欠如、武力紛争と難民、テロやジェノサイド (大量虐殺)、大規模災害に感染症……人びとの生存をおびやかす問題すべてが対象となる。

国連が2012年に決議したこの規範的概念に注目し、長く研究してきたのが神戸大学法学部の栗栖薫子教授だ。なぜこうした考えが生まれ、どのように広まり、影響力を持つようになったか。国際政治学者の視点からプロセスを調べ、分析してきた。

栗栖薫子 教授
人間の安全保障

「Human Securityには、欠乏からの自由、恐怖からの自由に加え、アイデンティティや人間らしさなど尊厳をもって生きる自由が重要だと言われています。これらは国家が安全だからといって、必ずしも保障されるわけではありません。中国やミャンマーのように、本来国民を守るべき政府が国民を弾圧する権威主義国家が近年台頭し、日本でも沖縄の基地問題のように、国家の安全と人間の安全がずれてしまう状況があります」

「最近では世界中で660万人が亡くなったコロナ禍があり、ロシアのウクライナ侵攻では難民が600万人、国内避難民も500万人に上ります。かつては、21世紀になれば社会が進歩し、国家間の関係もうまくいくと思われていたのが、現実はそうなっていません。今あらためてHuman Securityの考え方が見直されるべき時代だと思います」

国連で「人間の安全保障決議」が採択された3年後の2015年にはSDGsが定められた。今ではSDGsの方が広く知られ、世界的な取り組みとなっているが、掲げられた17の目標には人間の安全保障と重なる内容も多く、両者には密接な関係があるという。

SDGsと人間の安全保障 (出典:東 大作・峯 陽一「第1章 人間の安全保障の理論的なフレームワークと平和構築」『人間の安全保障と平和構築』日本評論社、2017年を参考に作成)

「SDGsは目標を設定し、そこへ向けて努力する成長志向型ですが、Human Securityはこのラインを下回ってはいけないという境界線、いわゆる閾値を設定したもので、リスク対応型と言えます。Human Securityが下支えとなって、SDGsの高い目標がある。コインの裏表のような関係ですね。SDGsの前身には、発展途上国の課題解決をめざしたMDGs (Millennium Development Goals=ミレニアム開発目標。2001年に定められ、2015年を目標年とした) があったのですが、これも同様の関係です」

「ただこれらは完全に切り分けられるものではなく、めざす方向性は同じですから重なる部分もある。たとえばSDGsでよく言われる『誰一人取り残さない』という理念。これはHuman Securityの中にあった表現で、SDGsにも取り入れたいと考えた日本の外務省が粘り強く交渉して採用されたと言われています」

日本が提唱・主導した理由と時代背景

栗栖教授によれば、そもそも人間の安全保障を提唱し、国連決議へ向けて中心的役割を果たしたのは日本だったという。その背景には1990年代以降、経済大国として国際貢献の姿勢を問われ続けた状況があった。

「日本のODA (政府開発援助) には理念がなく、ダムなど巨大な箱モノばかり造っているという以前からの批判に加え、1990年の湾岸戦争では多国籍軍に巨額支援をしたのに感謝されないという経験がトラウマになった。国際貢献を今後どんな形でやっていくのかが日本政府にとって大きな課題になっていたんです。そこへ1997年のアジア金融危機が起こり、タイや韓国、インドネシアなどで社会保障を削られたり、医薬品を買えない人たちが出てきた。困窮者を支援する名目として日本が考えたのが、人間の安全保障という概念でした。お金の額ではなく理念で国際社会をリードし、存在感を示そうとしたわけです」

キーマンとなったのが当時の外務大臣で、翌1998年に首相となる小渕恵三氏。ブレーンの国会議員たちが熱心に動き、やがて外務省やJICA (国際協力機構) などの官僚組織へと受け継がれる。さらに2003年、国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子氏がJICA理事長に就任し、他方外務省は、国連への働きかけを強めてゆく──。

このように国際社会に一つの理念や目標を定着させ、流れや道筋を作るまでには、さまざまな国や人や組織が関わり、政治的な思惑や駆け引きも複雑に絡み合う。そうした政策決定や合意形成の過程を明らかにしていくのが、栗栖教授が専門とする国際関係論だが、その研究対象も時代とともに変化してきたという。

「国際関係論と言えば、かつては日米や米中といった国家間の外交・安全保障の研究が多かったのですが、グローバル化が進展し、人や情報が国境を越えて行き来する現在ではアクターがとても多様になっています。企業やNGOや国際機関、テロ組織もそうです。それぞれがいろんな分野やレベルで日常的に活動していることが集合体となって国際関係に影響を与えている。SDGsもまさにそう。国連で採択されたとはいえ、条約でも国際法でもない目標が各国に広がり、企業や学校や団体それぞれが自主的に取り組むというのは、今までになかったことです」

個々の人びとの行動や発信が広まり、積み重なり、関わり合って、いずれ世界に影響を与えるかもしれない。SDGsにせよ、人間の安全保障にせよ、それが21世紀の国際社会のリアルであり、ダイナミズムなのだろう。

栗栖薫子教授 略歴

1991年3月上智大学外国語学部 卒業
1993年3月東京大学大学院総合文化研究科修士課程国際関係論専攻 修了
1997年3月東京大学大学院総合文化研究科国際関係論専攻・博士課程終了単位取得退学 (2006年9月 博士号 (大阪大学) )
1997年4月九州大学 助手
1999年4月神戸大学国際文化学部 講師
2002年10月大阪大学大学院国際公共政策研究科・助教授 (准教授)
2009年10月神戸大学大学院法学研究科 教授

研究者

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