今年3月に亡くなった五百旗頭真(いおきべ・まこと)神戸大学名誉教授(1943-2024)は、日本政治外交史、日米関係、戦後の占領政策の研究者として、各界に大きな影響を及ぼした。1995年の阪神・淡路大震災を経験し、東日本大震災後は政府の復興構想会議議長を務めるなど、多くの災害で政府への助言役も果たした。さらに、防衛大学校長などの要職も歴任。このような幅広い分野でリーダーシップを発揮した背景は何だったのか。五百旗頭氏に長年師事した法学研究科の簑原俊洋教授(日米関係、国際政治、安全保障)に、恩師が残した功績、教え子としての思いなどを聞いた。

研究者への道を開いた恩師の言葉

五百旗頭真・神戸大学名誉教授(公益財団法人ひょうご震災記念21世紀研究機構提供)

1981年から2006年まで神戸大学で教鞭をとった五百旗頭氏は「現在も過去も、アメリカが日本という国の安定と安全保障の基盤」という持論を学生に伝えていたという。「しかし、アメリカをただ信奉していたわけではありません」と簑原教授は振り返る。

「五百旗頭先生はリアリストで、日米関係を冷静に見ていました。敗戦国に対し、戦勝国がこれほど寛大だったことは歴史上なかったし、冷戦という背景があったにせよ、日本に対するアメリカの態度は国益の追求をはるかに超えるものでした。アメリカは日本を経済的に復興させただけでなく、民主主義が深く根付くように貢献した。先生はこうした歴史を冷静に分析し、後世の日本人が忘れないようにすべきだ、と考えていました」

五百旗頭氏は、自身の専門分野で次世代の研究者を育てることに熱心だった。その思いはゼミの風景にも表れていた。歴史に関するテーマだけでなく、世界の時事問題について学生と自由な議論を重ね、常に楽しそうな表情を見せた。

「五百旗頭先生は本当に学生を愛していて、家族のようでした」と簑原教授。授業時間が終わっても話し続けることもあり、学生はその一言一句に真剣に耳を傾けた。ある時は、広島、長崎への原爆投下前に佐藤尚武駐ソ連大使が早期終戦を模索し続けた事実を、涙を流しながら説明したこともあった。

「とても温かい人だったからこそ、そのような共感の涙があったのだと思います。私も教授になった今、先生と同じようにゼミ生との時間を楽しんでいます。議論をしていると、未来の世代の人生に直接触れている実感があります」

簑原教授はアメリカ育ちで、カリフォルニア大学デイヴィス校を卒業した。アメリカの銀行勤務を経て、神戸大学大学院に入学。五百旗頭氏のもとで日本の歴史や外交政策について学んだ後、アメリカのロースクール(法科大学院)に進学する予定だった。ところが、修士論文を高く評価した五百旗頭氏から、こう言われたという。

「お金を稼ぎたいだけならアメリカのロースクールに行けばいい。しかし、崇高な夢を追い求めるのなら、ここに残って学者になるべきだ」

戦争と震災 復興の共通点を見ていた

1996年3月、神戸大学で修士号を授与された簑原俊洋教授(右)と五百旗頭真氏(簑原教授提供)
 

2006年、五百旗頭氏は神戸大学を退職し、防衛大学校の第8代校長に就任した。同校は理工系の色合いが強いが、社会・人文科学分野にも力を入れ、改革を進めた。

簑原教授は「先生は、歴史が重要だという意識を学生に植え付けました。重要な意思決定者、その決断に至る過程、そして彼らが与えた影響に目を向けていました。しかし、それだけでなく、意思決定者のリアルな人間像を浮かび上がらせようとしました」と話す。

五百旗頭氏は、歴史的事実だけでなく、意思決定者が国家の運命を左右する決断を下すとき、何に心を動かされ、どのような不安や疑念を抱いていたかを重視した。同時に、彼らの決断の合理性や影響についても深く考察した。そして常に、過去と現在を結びつけ、今の世界との関連性を示していたという。

「歴史は繰り返さないかもしれない。が、韻を踏んでいるのは間違いない。五百旗頭先生とわたしは、心の底でこの考えを共有していたように思います」と簑原教授は述懐する。

五百旗頭氏は防衛大学校の校長に就任した後も、首相から学生まで多くの人々と交流し、意見を交わした。防衛大学校の学生は地域社会の一員であり、災害発生時には積極的に地域を支援しなければならない、という意識の醸成に力を注いだ。

その背景には、1995年の阪神・淡路大震災がある。五百旗頭氏は西宮市の自宅で被災し、教え子も亡くした。

「被災地では当初、ほとんどの救助活動が住民同士の『自助』によるものでした。自衛隊は救助のための動員を早期に行っていたのですが、被災地への派遣は自治体からの要請が前提になる。そうした仕組みの中で、自衛隊が要請なく動いたと批判されることもありました」と簑原教授。

当時、地方自治体も国も、このような大災害に対応する準備はできておらず、自衛隊にとってもかつてない経験だった。その教訓を後世の防災対策に生かすため、五百旗頭氏は防衛大学校の校長として積極的に動いた。

簑原俊洋教授

 

災害直後の救助や防災という面だけでなく、五百旗頭氏は長期の復興を見据えた研究、提言でも知られる。

「五百旗頭先生の研究の大きな柱は、アメリカによる戦後の対日占領政策でした。その政策は、最終的に日本の再建を目指したものになりました。戦争と災害という違いはありますが、壊滅的な被害を受けた国家や都市の再建を果たすためには大規模で綿密な計画が必要だ、という共通点を先生は見ていた。同時に、国家的危機に直面した際の政策立案者の重要性を認識していました」

阪神・淡路後の五百旗頭氏の提言として、簑原教授が例に挙げるのが神戸港の復興だ。「神戸港が壊滅的な被害を受け、機能を失っている間に、韓国・釜山などのアジアの港が貨物量を大きく伸ばした。先生は日本の未来を見据え、『神戸港をより大きく、より効率的にし、世界での地位を奪い返す必要がある』と考えていました」

ただ、当時はまだ、いわゆる「焼け太り」を許さないという政府の復興方針が鮮明で、実現は困難だった。しかし、五百旗頭氏が政府の復興構想会議議長を務めた東日本大震災(2011年)、復興に向けた有識者会議の座長を務めた熊本地震(2016年)など、多くの災害を経て、政府の方針は徐々に変化した。

「こうした変化は、五百旗頭先生の貢献によるところが大きい」と簑原教授は語る。

簑原教授は「五百旗頭先生が最も大切にしていたのは『人』です。先生はよく『人は歴史、歴史は人』と言われていました。先生が多くの人と交流し、幅広い分野で活躍されたのは、社会への恩返しをすることで自分の役割を確実に果たそうとされたからだと思います」と、恩師の人物像を語る。

その教えを受けた簑原教授は今、学生たちに「自由な考えを持ち、問題解決の力を身につけること」の大切さを伝える。そして「自らの行動によって世界を変えることができるというステークホルダーの意識を持ってほしい」と説く。

安全保障の問題をさまざまな人が学び合う組織として2019年、認定NPO法人インド太平洋問題研究所(RIIPA)を設立したのも、恩師の思いを現実のものにした活動だ。

「これは、わたし自身の社会貢献のひとつの方法であると同時に、先生の功績、リアリストとしての思考を後世に伝える場でもあると考えています」。五百旗頭氏がそうであったように、簑原教授も学内外で積極的な発信を続ける。

簑原 俊洋 教授 略歴

1992年12月カリフォルニア大学デイヴィス校 卒業 (国際関係)
1993年1月米ユニオンバンク勤務
1996年3月神戸大学 修士 (政治学)
1998年3月神戸大学 博士 (政治学)
1998年4月日本学術振興会 特別研究員
1999年4月神戸大学法学部 助教授
2000年4月神戸大学大学院法学研究科 助教授
2007年4月神戸大学大学院法学研究科 教授
2019年4月認定NPO法人インド太平洋問題研究所 理事長

研究者