近藤民代 教授

2025年1月17日で阪神・淡路大震災から30年となる。神戸大学は昨年11月、「阪神・淡路大震災30年事業委員会」(委員長=藤澤正人学長) を設置し、1年あまりにわたって研究成果の発信、震災資料の活用・継承などに取り組む。この約30年、国内外を問わず大災害が相次ぎ、今年1月には能登半島地震も発生した。阪神・淡路以降に蓄積されてきた知見を、未来にどう生かしていくのか。災害にかかわる研究を続けてきた一人で、本学都市安全研究センターの近藤民代教授 (居住環境計画、減災復興学) に、震災からの30年と今後の研究、被災地・神戸から発信すべき教訓などを聞いた。

阪神・淡路大震災の発生時は工学部建設学科の1年生だったのですね。

近藤教授

当時は神戸市東灘区で一人暮らしをしていたのですが、地震発生時はたまたま滋賀県の実家にいました。地震後に大学へ行ったのは、発災から1週間か10日ほどたったころだったと思います。テレビでJR六甲道駅が倒壊した映像などを見ていましたが、実際に倒壊した住宅やゆがんだ建物、道路を目にして衝撃を受けました。

震災後何年か経ってからだったと思いますが、工学部の室崎益輝教授 (現・名誉教授) から聞いた言葉が印象に残っています。僕たちは「どう造るか」は教えてきたけれど、「どう壊れるか」は教えていなかった、と。確かにそうだと思いました。わたしたちは「安全に造る」ことを学ぶけれど、どう壊れるかは学んでこなかったし、震災まで実際に見る機会もありませんでした。

「犠牲者聞き語り調査」で学んだ遺族の思い

震災をきっかけに災害の研究を志したのですか?

近藤教授

災害の研究をしようと思ったわけではないんです。震災後、都市計画をめぐって市民側と行政側が対立しましたよね。その様子を見て、市民はなぜこんなに怒っているのだろうか、と考えました。まちづくりの難しさを感じました。関心を持ったのは、行政と住民の間に入る専門家の役割です。卒業論文では、神戸市が1960年代に計画し、震災後も地元住民が反対を続けていた都市計画道路について、専門家の役割を考察しました。

大学院に進んだのは研究者を目指したからではなく、純粋に「知りたい」「現場で調査をしたい」という思いからでした。研究テーマも阪神・淡路大震災ではなく、フィールドはアメリカやイギリスでした。ゼミの塩崎賢明教授 (現・名誉教授) が、欧米の地域主体のまちづくりをテーマにした本を翻訳していたので、アメリカで現地調査をしたいと思ったんです。当時は、まちづくりのコンサルタントになりたいと考えていました。

学生時代、神戸大学が中心となって1998年からスタートした「犠牲者聞き語り調査」に参加していますね。阪神・淡路大震災の遺族に、住宅の間取りや被災状況などを聞いて震災の実像を記録する貴重な調査です。

近藤教授

調査には、自分から参加したいと申し出ました。振り返ってみると、住宅が壊れて人の命を奪ったということに対する問題意識があったのだと思います。なぜこれほど多くの人が亡くなったのか、その記録を残すことは安全を考えるうえでの基本だと思いました。ただし、調査を提案した室崎教授は「これは論文のためではない」と断言していましたし、わたしにとっても研究とは別の活動でした。調査は代々、神戸大学生に引き継がれ、遺族の了承が得られた記録は「人と防災未来センター」 (神戸市中央区) で公開されています。

調査に応じてくださった遺族からは「亡くなった家族の生きた証を残したい」という強い思いが伝わってきました。遺族はつらい思いを抱えているけれど、決して弱い存在ではないと感じました。この経験は、今の自分をかたち作っているものの一つだと思います。

都市計画で人を制御することはできない

阪神・淡路大震災以後も大災害が相次いでいます。研究などで特にかかわってきた災害はありますか?

近藤教授

アメリカ・ニューオーリンズが大きな被害を受けたハリケーンカトリーナ (2005年)、東日本大震災 (2011年) です。ハリケーンカトリーナが発生した時は、人と防災未来センターの主任研究員でした。センターの前に在籍していた京都大学防災研究所の研究者から声を掛けていただき、現地へ行き始めました。そのころから本格的に災害復興に関する研究に取り組むようになりました。

東日本大震災のときは妊娠中で、現地入りしたのは発災から1年たった後です。復興には最低10年かかると感じました。わたしは阪神・淡路大震災の研究にあまりかかわっていませんが、東日本の被災地に通い続けるのは、神戸でできなかったことのリベンジという思いが無意識のうちにあるのかもしれません。

東日本の被災地ではゼミ生有志と岩手県大槌町に入り、大学生と地元の高校生が復興の定点観測をする活動を見続けてきました。研究ではなく、復興のお手伝いができるとすれば一緒に考えることだろう、と思ったからです。その活動は今、大槌の高校生たちが自立して引き継いでいます。

研究面では、宮城県石巻市と岩手県陸前高田市を対象に、住宅の復興に関する調査をしてきました。東北でもニューオーリンズでもそうなのですが、これまでの調査で感じるのは、都市計画で人々をコントロールすることは無理だ、ということです。被災者は復興計画ができるのを待って住む場所を決めるわけではありません。

都市計画の基本的な考え方は、計画で制御しなければ人が思うままに動いて秩序がなくなる、ということでしょう。そういう計画の万能感のようなものが、非常にあやしいと感じます。自由な部分と制御する部分と、両方が必要なのだと思います。

災害復興の根本に迫るテーマのように思います。

近藤教授

一つの方向へ向かう回復力や改善力のようなものではなく、被災者の自由な動きを把握したうえでの適応力が重要だと思います。

東日本大震災では、津波で浸水した地域が災害危険区域に指定され、建築が制限されています。しかし、その空地を被災者自身がコミュニティファーム (地域住民が運営する農園) にしたり、亡き人と対話する場にしたりして、かつて住んでいた地域とのつながりを取り戻している事例があります。復興プレイスメイキング、つまり場所の再構築ですね。こうした動きは被災者の適応力の例だと思います。

ただ、今の復興のやり方ではさまざまなひずみが見えているので、方法自体を根本から変革しなければならないと思います。どう変えるかはまだ見えていないのですが、南海トラフ巨大地震や首都直下地震では、阪神・淡路や東日本で前提とされた復興のシステム自体を変える必要があります。つまり、事前復興の研究をしなければならないと考えています。平時のまちづくりの蓄積から考え、これまでとは違うレンズでものごとを見ることが必要だと思います。

1月1日に発生した能登半島地震の被災地も訪問したそうですね。どのような視点でこの災害を見ていますか。

近藤教授

能登半島地震が発生する前から、「移動する住まい」というテーマで研究を始めていました。日本は、ずっと同じ土地に暮らす人が多く、流動性が低いという特徴があります。まちを形成する意味ではそれが重要なのですが、今後は移動しながら生活したり、複数の拠点を持ったりする人も増えるかもしれないと考えています。こうした視点は災害研究にもつながると思います。

普段の生活の中で、主となる居住地域以外にも拠点を持ったり、関係を作ったりしておくことは、被災時、そこに一時避難する選択肢につながるでしょう。また、移住する抵抗感も薄く、連続的な住まいの復興ができるかもしれません。複数の拠点を持つことは、事前復興にも寄与するレジリエントな (弾力的で適応力の高い) ライフスタイルになる気がします。

能登半島地震の被災地は、発生から約2カ月後の3月初めに訪れました。甚大な被害を受けた奥能登地域から金沢市内の1.5次避難所 (いしかわ総合スポーツセンター) や2次避難所 (ホテルや民泊施設など) に移動し、生活している被災者も多くいました。

どこで住まいを再建し、どのように暮らしを再構築していくかは、被災者が最も悩んでいる問題だと思います。そうした住宅復興の課題について、現代のような人口減少社会では、居住の流動性を前提に支援策を打ち出す必要があると考えています。元の地域から移転する人々の幸福度を考えた支援とともに、人口が大幅に減少しても持続できる集落・まちの復興を追究することが求められていると思います。

能登半島地震で大きな被害を受けた石川県輪島市内 (3月7日)

あらゆる学問領域が災害時に貢献できるはず

阪神・淡路大震災30年に向けて、取り組みたいことは?

近藤教授

まずは振り返ってみるところから始めないと、未来は見えないでしょうね。それぞれの学問領域がどう進化してきたか。被災地の大学として、考えなければならないと思います。災害に関する直接的な研究だけではなく、医学も教育学も経済学も法学も、すべての学問領域が災害時に何らかの貢献ができると思います。この約30年、情報システムなどの技術の進歩も目覚ましいものがあります。多様な分野の人がつながれば、自分の分野だけでは解けない問題の解決策が見えてくるのではないかと思います。

神戸大学では、どこかで災害が起きると「いつ被災地に行くか」「どう支援するか」といった話題がすぐに出ます。学生の災害ボランティア活動もずっと受け継がれています。それは災害文化といえるようなものかもしれません。

市民と一緒に考えることが大切だと思います。所属している神戸大学都市安全研究センターでは、1997年から誰でも参加できるオープンゼミナールを開き、今年中に300回を迎えます。このゼミナールも市民と一緒に考える場であり続けたいと思います。

わたし自身、神戸に育ててもらいました。被災者、プランナー、行政職員など、さまざまな人に育てられたと思います。今後は、現在進行形の被災地や、将来災害に見舞われるかもしれない「未災地」に還元していかなければなりません。震災30年を越えた後も、一緒に考える同志を増やしていければ、と思っています。

近藤民代教授 略歴

1998年3月神戸大学工学部 卒業
2003年3月神戸大学大学院自然科学研究科 博士号取得 (工学)
2003年4月京都大学防災研究所巨大災害研究センター COE研究員
2004年4月ひょうご震災記念21世紀研究機構 人と防災未来センター 主任研究員
2008年10月神戸大学大学院工学研究科 准教授
2022年10月神戸大学都市安全研究センター 兼 大学院工学研究科 教授
(2023年4月~ 都市安全研究センター副センター長)

研究者

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